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北宋仏教導入という点で画期となるのが、入宋交流史上注目される奝然であった。完成間もない宋版一切経の輸入やその後の安置の状況、また清涼寺蔵の優填王第三伝栴檀釈迦像と納入品の受容が、モノの直接的輸入という点で議論されている。
さらに奝然は、愛宕山を中国の五台山に擬す聖地化を図り、大乗戒壇を建立し、「三学宗」なる宗派を建立し
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ようとしたという。三宗学とは、戒・定・慧からなる三宗を意味し、当時では禅宗を含む諸宗兼学の北宋仏教そのものを指す。また(略)達磨宗つまり禅宗を伝えたともいう。奝然は、北宋の仏教制度・信仰をそのまま導入しようとしたといえよう。しかし奝然の計画は(略)悉く天台宗の反対にあって潰されている。
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以上によれば、覚阿は南宋の都臨安(杭州)にある霊隠寺住持仏海禅師恵遠*1に師事し禅を学ぶが、(略)日本に禅宗を導入しようとする明確な意思を持っていた。しかも仏教を保護する後白河院を中国に宣伝し、その後押しを強調している。
また覚阿帰国の翌年、安元元年(1175)には、覚阿の師にあたる園城寺長吏覚忠が、杭州の恵遠に使者を送り詩書・贈物を届けている。さらに寿永元年(1182)、後白河院は恵遠を「叡山寺」住持に迎えようと要請したが、すでに入寂して果たせなかったという。この覚忠は、後白河院の出家戒師であり、この禅宗導入が園城寺長吏・後白河院という王権中枢の意図によるものであることは明白である。
従来、南宋禅の導入は、能忍や、能忍と同一視された栄西や少数派の異端的動きとみられていた*2。しかし、栄西入宋の経緯*3や、後白河院・覚阿と恵遠らの交流を考えると、これはまさに後白河院の政策に基づき、禅宗導入が計画されたとみる他はない。十世紀、奝然の時期以来、排斥されてきた禅宗を導入するという選択をしたのは、王権および王権を支える仏教勢力の一部でもあったのである。
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(略)南宋禅に傾倒したのは一介の異端僧ではなく「顕密の学僧」だったのである*4。実在の栄西・覚阿も、このように認識されたのであろう(略)平氏・後白河政権による南宋仏教の直接導入は、王権と禅宗の結合でもある。