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初期室町政権を支える〈神話〉 「霊山付嘱」考

PDFは西山 美香 (Mika Nishiyama) - 資料公開 - researchmapで公開中。

 三章  初期室町政権を支える〈神話〉 「霊山付嘱」考〔校正中〕


     1 天龍寺を支える「霊山付嘱」

 貞和元年(1345)4月8日、霊亀山天龍資聖禅寺は法堂の開堂を迎え、足利尊氏・直義兄弟出席のもと法要を行った。天龍寺の開山・夢窓疎石は、さっそく上堂し、天龍寺における最初の説法を行った。『夢窓国師語録』に所収される「天龍寺語録」は、この日の夢窓の説法の記録からはじまっている。
 天龍寺は、後醍醐天皇の七々(四九)忌日にあたる暦応2年(1339)10月5日付の光厳上皇院宣によって、亀山殿を仏閣とし、夢窓疎石にその仏閣の開山になるように定められたことにはじまる。続いて同月13日、光厳上皇は、その仏閣の名を霊亀山暦応資聖禅寺とする旨の院宣を夢窓に下し(その後の暦応4年7月22日、暦応寺は天龍寺にその名を改めた)、新仏閣が禅宗寺院であることが天下に知らされた。
 天龍寺創建の意義については、桜井景雄氏が「尊氏一族は夢窓疎石との間に師弟の関係を結んで、夢窓派の勢力を五山の間に伸張せしむる事に依って、五山を自己の掌中に収めんとした。夢窓派の京都に於ける発展の鞏固なる基礎は天龍寺の創建によって築かれた。(略)天龍寺は(略)夢窓派と足利氏との間に師檀の関係を生じ、鞏固なる結合を生ずるものであった。(略)吉野朝室町両時代に亘り、夢窓派が禅宗の代表的地位を獲得し、至大なる活動を為し得た事は、実に天龍寺の創建に発足すると言ひ得る」(1)と結論づけたように、実際は幕府の主導によって創建された。しかしその実態にもかかわらず、あくまで勅願寺として建立されたことにその特色があるだろう(2)。
 勅願寺である天龍寺の法堂には、「法雷」という勅額が掲げられた。「法雷」とは、『華厳経』の経文に基づいた『証道歌』の「震法雷、撃法鼓」という語をふまえたもので、仏の教法が広く伝わることを雷鳴の響きに譬えた語である。夢窓は上堂において、次のように述べて勅額に謝意を表した。


朝廷は額を賜ふて、扁して法雷と曰ふ。(略)如来法を以て国王大臣に付嘱す。慈鑑の効、此に昭著す。(原文は漢文)

 夢窓は、光厳上皇が法堂に勅額を下賜したことを、「如来は法を国王大臣に付嘱せり」という釈迦の意志にかなった営為であるとし、光厳上皇を理想的「国王」として称賛しているのである。
 その後、同年8月29日、天龍寺にはついに新仏殿(覚皇宝殿)が完成、後醍醐天皇七周忌法要をかねて、盛大にその開堂法要が行われた。これがかのいわゆる「天龍寺供養」である。それに至る経緯や供養の様子は『太平記』に詳しい。山門の激烈な抗議により、光厳上皇の臨幸は29日はとりやめとなり、翌30日に延期された。
 『夢窓国師語録』には、8月30日に臨幸を仰いで行われた法要の際の夢窓の上堂の記録である、「覚皇宝殿慶賛陞座」が収められている。おそらくは『夢窓語録』中、白眉と呼べるものであり、このときの夢窓の強い意気込みをうかがうことができる。
 寺号山号をはじめ天龍寺のすべての堂舎には、光厳上皇の勅額が掲げられた。夢窓はそれに対し、「覚皇宝殿慶賛陞座」において次のように謝意を述べている。


並に是れ太上天皇の奎翰なり。聖志の懇誠斯に彰はれ、祖宗の光幸、見るべし。(原文は漢文)


 ここで夢窓が述べる「聖志の懇誠は斯に彰われ」とは、先の4月8日の上堂における、法堂の勅額についての彼の語と同じ意味である。
 勅額は、勅願寺である天龍寺をまさに象徴するものである。その勅額がよってたつ思想的基盤は、そのまま天龍寺の思想的基盤と考えられるであろう。すなわち天龍寺光厳上皇が「如来は法を国王大臣に付嘱せり」という故事にちなみ、釈迦の遺志に応えたものとして創建されたのである。
 注目すべきは、天龍寺供養の際に、禅律方・藤原有範によって起草された光厳上皇の「天龍寺供養御願文」(『師守記』貞和元年8月29日条所引)においてもこの故事を見出だすことができることであろう。


不違霊山付嘱之仏勅焉、乃命征夷将軍朝臣、新剏叢林之基兆、既成土木之営功、

 ここで光厳上皇は、天龍寺について「霊山」、すなわち霊鷲山において「如来は法を国王大臣に付嘱せり」という釈迦の意志にかなうものとして、「征夷将軍朝臣」に建立を命じたことを宣言しているのである。
 では「霊山の付嘱」・「如来は法を国王大臣に付嘱せり」という故事について、以下検討したい。付嘱(附属・付属とも)とは「仏祖の大法を伝えて後の人に対してその護持を依嘱すること」(『新版禅学大辞典』)である。「霊山の付嘱」・「如来法を以て国王大臣に付嘱す」とは、釈迦が霊鷲山において、自らの滅後、仏法の護持を国王大臣に委嘱したという意味である。
 夢窓は、足利直義との問答の形式をとる『夢中問答集』第10問答で、この故事について述べている。


 問。仏の言はく、仏法をば国王大臣有力の檀那に付属す。しかれば、檀方つつがなくして、仏法も紹隆すべし。僧家も檀方の祈りをせられむは、何ぞ理にそむかむや。
 答。仏の付嘱し給へる意は、国王大臣等、或は外護となり、或は檀越となりて、仏法を流通し、自らもまたこの仏法に入りて、出離せよとの謂れなり。この仏法を以て、世俗の名利を祈り給へとて、付嘱し給へるにはあらず。然らば則ち、世上もをさまり、檀門もつつがなくして、仏法を紹隆し、衆生を利益せむために、御祈りをせよと仰せられ、僧家もこの志を励まして、御祈りを申されば、仏の付嘱に背くべからず。


 そして夢窓は次のように述べて、この問答を締めくくっている。

末代なりといへども、かたじけなく如来の御付嘱にあたり給へるは、嬉しき御事にあらずや。先づ仏の付嘱に背かじと大願を発して、外には大小の伽藍を興隆し、内には真実の道心に安住して、諸宗を流通して、普く善縁を結び、万人を引導して、同じく覚果を証せしめむと、深く誓ひましますべし。もししからば、乃ちこれ真実の御祈祷、広大の御善根なるべし。十善・五戒の宿薫によりて、国王大臣、有力の檀那とならせ給へるも、しかしながら三宝の恩力なり。もし又仏の付嘱に背きましまさば、仏の付嘱をうけざる下賎の人と異ならじ。


 『夢中問答集』は直義との問答の形式をとってはいるが、基本的には夢窓(派)によって新たに著述・編纂されたものと推定される(3)。ただし作品中における夢窓の語は、おそらく日ごろから尊氏・直義に語っていたことと重なると推測され、この第一〇問答に見られる夢窓の思想も、尊氏・直義の宗教事業に大きな影響を与えたものと推定される。
 ここで夢窓は「仏の付嘱に背かじと大願を発して、外には大小の伽藍を興隆し」と述べて、寺塔の建立を強くすすめている。『夢中問答集』における夢窓の語をふまえれば、尊氏・直義は、「仏の付嘱に背かじと大願を発して、外には大小の伽藍を興隆」したと考えてよいであろう。すなわちこれはそのまま室町幕府の宗教的国家事業である天龍寺建立・安国寺利生塔設置の思想的基盤であると考えられるのである。
 また夢窓は、「仏の付嘱に背かじと大願を発して、(略)内には真実の道心に安住して、諸宗を流通して、普く善縁を結び、万人を引導して、同じく覚果を証せしめむ」とも説いている。『夢中問答集』が、直義が夢窓に参禅した形式を持つテクストであることをふまえれば、直義が、自らが参禅した記録の形式をもつ『夢中問答集』を刊行する行為そのものが、「霊山付嘱」の故事によって示される、釈迦の教えに基づいたものであり(4)、第一〇問答はそれを宣言していると考えられるであろう。
 釈迦の霊鷲山における付嘱の故事については、中国の禅籍では『景徳伝灯録』『五灯会元』などに引用が見られるが、日本の禅籍としてははやく栄西(1141~1215)の『興禅護国論』に引用があることが注目される。


第二、鎮護国家門とは、仁王経に云く、仏、般若をもって現在・未来の諸の小国王に付嘱して、もって護国の秘法とすと。その般若とは禅宗なり。謂く、境内にもし持戒の人有れば、すなわち諸天その国を守護すと云々。(原文は漢文)


 ここで栄西が「仁王経に云く」とするように、これは護国の根本義を説いた経典である『仁王般若経』巻下「受持品」にみられる故事である。


仏告波斯匿王、 我当滅度後法欲滅時、 受持是般若波羅蜜、 大作仏事、 一切国土安立、万姓快楽。皆由般若波羅蜜。 是故付嘱諸国王、 不付嘱比丘比丘尼清信男清信女。 何以故、無王力故、故不付嘱。(『大正蔵』八・八三二b)


 栄西はこの経文を「護国の秘法」とし、釈迦が国王大臣に付嘱した仏法とは禅であり、つまり禅宗こそが鎮護国家を担う国家宗教であるという、『興禅護国論』「鎮護国家門」の主張の根拠として用いている。
 この主張は栄西にとどまらず、その後の無象静照(1234~1306)『興禅記』に、もっと鮮明にうち出されている。


塵中に在りと雖も、宰官の身を現じて、内外護となる。法海の中に於て、能く津済を致す、欲に在って禅を行ず、火中に蓮を生ずるものなり。是れを以て諸王群臣、或は寺宇を建て、或は田園を置いて、如来の付嘱を忘れず、其の真正の釈子をして、安心行道として、方に随って化を設けしむ。則ち諸天善神、誓願力に乗じて、来って其の国を守る。誠に所謂国家の盛衰は、仏法の興亡に在るものか。然も法は人に由って興り、道は縁を待って顕はる。法あれども僧宝なければ、其の名を存すと雖も、而も其の法伝はることなし。道あれども檀資なければ、其の志を立つと雖も、而も其の道興り難し。仏経を聞くに、曰く、「昔世尊、霊山会山に在って、諸大弟子に告げて曰く、我れ滅度の後、清浄の正法、悉く以て国王、大臣、有力の檀那に付嘱す、能く外護を致し、能く興持をなし、正法の化益をして、未来世に及ぶまで、断絶せしむることなからしむ」と。此の言に由らば、仏教の損益弛張、国王、大臣、有力の檀那の慈明にあり。(原文は漢文)


 夢窓も、先に見た天龍寺供養(8月30日)の説法において、「祖宗の光幸、見るべし」と、釈迦が国王大臣に付嘱したのは禅宗だと述べており、夢窓の主張は栄西・無象の主張を受け継ぐものであることがわかる(5)。つまり、この霊鷲山における故事は、国家宗教としての日本禅宗の正統性を保障する、もっとも聖なる〈神話〉であったと考えられるのである。

 

     2 利生塔を支える「霊山付嘱」

 次に利生塔と関わる資料において、この故事についてみてみたい。室町幕府のお膝元である山城国の利生塔であり、利生塔を代表・象徴する寺塔と考えられる、法観寺八坂塔とかかわる資料を検討することにする。足利尊氏・直義は法観寺の利生塔編入にあたり、五重塔の補修を行い、それが成った康永元年(1342)8月5日、夢窓疎石を導師に迎えて供養を行った。『夢窓国師語録』にはそのときの夢窓の説法の記録「欽奉聖旨慶賛京城東山八坂宝塔」が所収されている。以下本稿の主題とかかわる部分のみ抄出する。


伏して惟んみるに、征夷大将軍、左武衛将軍両殿下、英傑を天賦に稟け、武門の遺風を玷さず、善本を夙生に殖ゑ、鷲嶺の付嘱に相符ひ、左武右文、王室の機括を為すに堪へたり。内真外俗、寔に是れ法城の金湯。茲者、元弘以来、国家大いに乱る。賢懐を想ひ料るに爰ぞ悪を介むこと有らん。祇天災不虞に起って人民を傷害すること尠からず、舎宅を焚焼する幾何ぞ。此の悪縁に因って、翻って善願を発す。其の善願は、所謂、六十余州の内に於て、州毎に一基の塔を建てんと欲するものなり。其の旨趣は敢て私家の為にするにあらず、仏法王法同時に盛に興らんことを祈らんと欲す。其の回向も亦自利の為にするにあらず、此方他方一切の含識を済はんと欲す。具に精悃を陳べて、上、聖聞に達す。其の志は叡襟に協ひ、亦同じく大願を発し、乃ち主の幹を武将に命じて、以て締構を諸州に成す。或は新たに営功を樹て、或は重ねて廃祉を補ふ。今此の当山の霊塔、是れ其の一なり。(略)於戲、如来仏法を以て国王大臣有力の檀那に付嘱す。金言虚ならず、得て験みつべし。昔、本朝伽藍の興建、此の地、是れを権輿と為す、今、諸国塔婆供養は、此の地、亦先鋒と作す。其の感応冥符に由って、此の縁遇際会を知る。仏法の流布すること、既に此の精舎従り始まり、仏法の再興することも亦此の精舎に資るものか。阿育王曾て八万四千の塔廟を造る、皆八祥の霊地を択んで以て址基と為せり。榑桑国新たに六十六箇の浮図を立つ、先ず八坂の精藍に於て供養を修す。(原文は漢文)


 この説法でも夢窓は二箇所で、「霊山の付嘱」を引用している。そして尊氏・直義が「六十余州の内に州毎に一基の塔を建」てること、すなわち利生塔が「鷲嶺の付嘱」にかなった営為であるとし、「上、聖聞に達し、其の志は叡襟に協い、亦た同に大願を発こしたまえり。乃ち主幹を武将に命じて、締構を諸州に成さしむ」として、利生塔もまた、勅願によるものであることを宣言している。
 わたくしは、利生塔のモデルとして、阿育王、呉越の銭弘俶、源頼朝の八万四千塔供養を推定しているが(6)、夢窓の後継者である春屋妙葩の語録『智覚普明国師語録』巻3に「呉越王不忘霊山附嘱之大願力。(略)王效阿育王八万四千塔婆」とみえ、利生塔と同じく、「霊山付嘱」が動機とされていることが注目される(『大正蔵』80・666c)。また康永三年一〇月八日付の直義自筆の跋文をもつ『高野山金剛三昧院短冊和歌』について検討し、同書の編纂・奉納は、利生塔設置の意義を確認・表明するためのものであった可能性が高いことを推定した(7)。
 『金剛三昧院短冊』の巻軸歌は、直義の次の歌である。
霊山の付属を今も忘れねば君がまもりて法ぞ久しき
 ここで直義が「霊山の付属」を詠んでいることが注目されるであろう。この直義の和歌は、自らが編纂・奉納の実務を担っていた『金剛三昧院短冊』が、「霊山の付嘱」の故事にかなった営為であることを宣言するものと考えられる。そして直義が「君」と呼ぶ人物は、釈迦から仏法を付嘱された「国王」であるから、おそらくはこの作品に和歌を寄せた、当時の治天たる光厳上皇と考えてよいであろう。直義は光厳上皇がこの作品に和歌を寄せたことに謝意を示すとともに、光厳上皇を理想的な「国王」として称賛しているのである。そして直義がこのような歌を詠んでいることによって、光厳上皇を頂点とする政権の反映として、『金剛三昧院短冊』を編纂していたことが判明するのである。
 またわたくしは『金剛三昧院短冊』の直義の跋文と、『夢中問答集』の跋文(再跋)の日付とがまったく同日であることを指摘し、この二つの作品がともに、直義と夢窓が中心人物として関わっていることから、『金剛三昧院短冊』と『夢中問答集』は機をあわせて制作された作品、いいかえれば対の作品であったという可能性を指摘した(8)。すなわち『金剛三昧院短冊』奉納と『夢中問答集』刊行は、尊氏・直義が夢窓を師とし、三宝に帰依し、菩提心を発し、仏道(禅)修行を行っていくことを宣言したものであり、安国寺利生塔設置・天龍寺創建・『夢中問答集』刊行・『金剛三昧院短冊』奉納は、幕府の宗教事業としてその基底で連携し、それらの目的も響きあっているのである。そしてそれらのすべてを推進する尊氏・直義の営為の動機であり、それらを保証しているものが、「霊山の付嘱」の故事であったと考えられるのである。
 ではそれら一連の営為において共通する目的とは、いったい何なのだろうか。先に見た『夢中問答集』第10問答をここでもう一度確認してみたい。この問答の問は、「仏法をば国王大臣有力の檀那に付属す。しかれば檀方つつがなくして、仏法も紹隆すべし。僧家も檀方の祈りをせられむは、何ぞ理にそむかむや」というものであった。つまり仏教における国家的祈祷が問題となっていることがわかる。夢窓はそれに対し、「世上もをさまり、檀門もつつがなくして、仏法を紹隆し、衆生を利益せむために、御祈りをせよと仰せられ、僧家もこの志を励まして、御祈りを申されば、仏の付嘱に背くべからず」と答えている。すなわちこの故事は、仏教(禅)における国家的祈祷の思想的根拠でもあったことがわかるであろう。
 夢窓は『夢中問答集』第10問答で、次のようにも述べている。
古への大師高僧の、国家を祈り災厄を払ひ給ふことは、これを方便門として、衆生を接引して、大菩薩を証せしめむためなり。
 夢窓の主張によれば、僧侶による国家的祈祷の目的は、あくまで衆生を教化することであり、「国家を祈り災厄を払う」祈祷は方便に過ぎない、という。この彼の主張は、当時尊氏・直義とともに、鎮護国家を目的とした宗教事業を推進する夢窓自身の立場・主張の根拠を表明するものであったとも考えられるであろう。
 すなわち尊氏・直義と夢窓によって推進された国家的宗教事業は、「霊山の付嘱」を思想的基盤としており、それは鎮護国家を目的とした国家的祈祷の役割を担っていた。そして、それは「檀門」だけの利益を祈るものではなく、「国家を祈り災厄を払ひ給ふこと」を方便として、一切衆生を利益することを目的としたものであったのである。

 

     3 国王の資格としての「霊山付嘱」

 観応2年(1351)9月30日、夢窓疎石臨川寺三会院南詢軒にて示寂した。世寿七七歳。夢窓は示寂前年の観応元年(1350)11月上旬、『臨幸私記』を著した。現在も夢窓自筆本が、京都鹿王院に残されている。『臨幸私記』は天龍寺における臨幸の「日時と上皇奉接の礼儀の次第」をまとめたものであり、その編纂の目的は、夢窓が「帝王臨幸の際における奉接の儀礼を、後人のために多くの例を挙げて説明し、一方渡来僧に対し、わが国特有の風習のあることを知らしめんがため」のものとさ(れる(9)。
 叙述の中核は貞和2年(1346)2月17日の光厳上皇天龍寺臨幸の記録である。夢窓は光厳上皇天龍寺臨幸を、帝王臨幸の規範と定めたのであった。
 光厳上皇が法堂に座し、住持(夢窓)が入堂した部分をみてみたい。


上皇従仏殿後門直入法堂。(略)将軍参会(略)住持入堂。(略)問答罷。略叙国王皆稟仏遺嘱之因由云々。


 夢窓が臨幸の際に法堂において、上皇に「国王皆仏の遺嘱を稟くるの因由」、すなわち「霊山付嘱」の故事の意義について説いていたことがわかる。これは光厳に王としての自覚を促すとともに、その場にいる人々に光厳の王たる立場を知らしめることを目的としていたと考えられるであろう。
 夢窓は示寂一ヶ月半前の8月16日に、再住していた天龍寺において、後醍醐天皇一三周忌法要の導師をつとめた。『夢窓国師語録』「再住天龍寺語録」はこの日の夢窓の上堂の記録で終わっている。夢窓の人生最後の上堂であった。
 夢窓は次のように語っている。


人間第一の輪王も亦是れ夢中の宝位、梵世最高の天王も亦夢中の快楽なり。是の故に釈迦如来、輪王の位を棄てて、山に入りて苦行す。其の意、何んぞや。蓋し人をして各、無上覚王の、世間の尊貴に超越することを知らしめんが為の故耳。(略)恭しく願はくは、上皇頓に塵機を転じて、妄宰に拘らず、速かに業識を翻して、霊知を証得し、怨親差別の昏衢を超越し、迷悟一如の霊域に優游し、鷲嶺の付嘱を忘るることなく、生生法門を保護し、亀山寂場を動ぜず、刹刹群類を利済せん。武家が祈り奉る願望、既に爾も斯くの如し。上皇の叡念、寧ろ之が為に消融せざらんや。(略)若し爾らば則ち干戈永に止みて四海清平に、災厄は咸く消して万民康泰ならん。武運綿綿として永く奕世に伝へ、願心浩浩として普く含情に及ぼさん。(原文は漢文)


 夢窓が迫る自らの死を目前にし、「上皇」と「将軍」に、「王」としてのあるべき姿を説く部分である。夢窓は、後醍醐天皇が亡くなった後も、戦乱が続く状況をふまえ、人間第一の王たる輪王も「夢中の王」「夢中の快楽」であり、釈迦はそれを知っていたため、輪王である地位を捨てて山に入って修行したとし、「上皇」と「将軍」にもその地位に溺れることなく、仏弟子として修行すべきことを説いている。そして夢窓は、その拠点、すなわち修行の道場が、「亀山寂場」(天龍寺)であることを宣言し、そうすれば「干戈永に止みて四海清平に、災厄は咸く消して万民康泰ならん。武運綿綿として永く奕世に伝へ、願心浩浩として普く含情に及ぼさん」と述べている。夢窓はここでも「鷲嶺の付嘱を忘るること無く」を根拠として、「王」に仏法の護持を説いている。
 近江に出陣中の尊氏はこの場にいなかったが、16日付の置文を夢窓に遣わし、足利将軍家一族が末代に至るまで、永久に天龍寺・夢窓派に帰依することを確約した。夢窓は翌一七日に天龍寺住持を辞した。彼の体調は徐々に後退し、9月1日には「吾れ行かんこと必なり」と述べるに至る。9月7日、19日には、光厳・光明両院が夢窓を見舞うために天龍寺に臨幸した(『園太暦』)。そして9月29日、夢窓は遺誡十数条を弟子に付し、また遺偈を尊氏に寄せ、直に会って別れを告げられない旨を書き、辞世の頌を記した。そして「老僧已に手臂の不仁を覚ゆ。明日行かん」と述べ、まさにその言の通り、翌30日示寂した。
 夢窓が尊氏によせた遺偈は次のようなものであった。


真浄界中無別離。 何須再会待他時。
霊山付嘱在今日。 護法権威更仰誰。


 夢窓は自らの死にあたり、「護法」を「王」尊氏に遺言する「今日」を、かつて釈迦が霊鷲山において、自らの滅後、仏法の護持を国王大臣に付嘱したことになぞらえている。夢窓がその死の直前まで一貫して説いた「王(為政者)のあるべき姿」が、「護法」であり、夢窓が尊氏・直義と共同で行った宗教事業の思想基盤が、「霊山付嘱」の故事にあったことが、この遺偈からもうかがわれるであろう(10)。
 夢窓が『夢中問答集』第一〇問答において述べる、「国王大臣」は「或は外護となり、或は檀越となりて、仏法を流通し、自らもまたこの仏法に入りて、出離せよ」とは、仏教(禅)における「国王」(為政者)のあるべき姿を示しており、それは、鎌倉・室町幕府の為政者の帰依を受けて、その政権を保証する役割を担った臨済僧たちが、為政者たちに説いていた「あるべき王(為政者)の姿」であったと推測される。そして「もし又仏の付嘱に背きましまさば、仏の付嘱をうけざる下賎の人と異ならじ」と述べることから、夢窓の思想においては、「霊山付嘱」の故事に応えることが、「国王大臣」であることの〈資格〉として機能しており、「霊山付嘱」の故事を思想基盤とする宗教事業--安国寺利生塔設置・天龍寺創建・『夢中問答集』刊行・『高野山金剛三昧院短冊和歌』奉納--こそが、院政を戴く初期室町政権の正統性を支えていたのである。そしてそれは、臨済禅を国家宗教とした、鎮護国家を目的とする祈祷の役割を担っていたのであった。

注(1) 『南禅寺史』法蔵館(1977)。
(2)(3) 本書Ⅰ部二章を参照。
(4) 『夢中問答集』の終わりから二番目の問答である、第九二問答には、次のような直義の語が見られる。
問。日来相看の次いでに問答申したることを、何となく仮字にて記し置きたり。是を清書して、在家の女性なむどの、道に志ある者に見せばやと存ずるは、苦しかるまじきやらむ。
 西村恵信『夢中問答 禅門修行の要領』日本放送出版協会(一九九八)は、第九二問答について『夢中問答集』刊行の意義として、直義の「利他の精神」を指摘する。
仏道修行について、直義という一人の求道者と、夢窓という善知識との間に行われた問答は、その都度完結した歴史的一回性のできごとであるから、それを記録して、問答の場に居合わせなかった人に伝えるということは、いわば無用の閑事であることは、誰の目にも明らかであろう。しかるに直義はそのことを百も承知で、問答を記録し、清書し、他に喧伝することの許しを乞うているのである。そこにこの問答を自分一人のこととして終わらせてしまいたくないという直義の利他の精神が見えている。(略)実際、今日われわれがこのようにして『夢中問答』を、自分たちの求道の指針とすることができるのも、この第九十二段の問答にもとづいているのであり、そこに、この一見禅から見て本質的とも思えないようなこの問答が、わざわざ一つの問答として本書の中へ収められていることの意味があるのであろう。
 私見では、『夢中問答集』が夢窓(派)によって編纂されたテクストである以上、直義の肉声ではないが、直義の意向を夢窓が汲むとともに、また夢窓によって「利他の精神」を持つ為政者として『夢中問答集』に表現されたと考える。
(5) 今枝愛真「『興禅護国論』『日本仏法中興願文』『興禅記』考」『史学雑誌』九四-八(1985・8)は、『興禅護国論』『興禅記』を近世期の偽書とする。私見では、『夢中問答集』と両書の共通する部分を比較すると、『夢中問答集』が両書より先行すると考えるのは難しく、現存のテキストとの違いははっきりしないものの、両書は『夢中問答集』より以前の成立であり、一応現時点ではそれぞれ栄西と無象の真作と考える。
   黒田俊雄「王法と仏法」『増補新版 王法と仏法 -中世の構図』法蔵館(2001)は、「保安四年(1123)7月の石清水八幡への『白河法皇告文』には『伏して惟れば、王法如来の付属に依て国王興隆す。是を以て仏法は王法保護してこそ流布すれ』とあるが、これはインドの転輪聖王の理想をみることができ、事実当時のものに国王を転輪聖王に見立てた記述は少なくない。仏法が王法と対等であるだけでなく、むしろ理念的には仏法が優越しているのである」と指摘するように、臨済禅独自のものではない。曹洞禅でも道元が『正法眼蔵』「弁道話」執筆の動機とし、日蓮守護国家論』にもみえる。
   『夢中問答集』において、直義が転輪聖王聖徳太子に夢窓によってなぞらえられていることは本書Ⅱ部四章で、「仏法を護持する武家政権の理想的為政者」という姿が、聖徳太子源頼朝説話と結びつく諸相についてはⅠ部一章で論じた。
(6) 本書Ⅰ部一・四章を参照。
(7)(8) 本書Ⅰ部四章を参照。
(9) 加藤正俊編著『夢窓国師遺芳』大本山天龍寺(二〇〇〇)。
  夢窓は光厳に「無範」という道号を与え、次のような詩を詠んでいる。
      無範光厳法皇
    世間枢要没交渉 仏祖楷模也浪施
    声迥迥兮空索索 鳳栖不在嬰梧枝
 柳田聖山『日本の禅語録 七 夢窓』講談社(一九七七)は「仏祖楷模」を「ブッダが在家の国王大臣等に末世の護法を属したこと、仁王経の経説を指す」とする。
 江戸時代初頭、後水尾天皇寛永三年(一六二六)九月六日から七日にかけて、江戸幕府三代将軍徳川家光の滞在する二条城への行幸を果たし、贅を尽くした華麗なる大祝宴が四日間くりひろげられた。その行幸を陰でとりしきった「黒衣の宰相」こと南禅寺金地院・以心崇伝が、行幸の間手元に置いていたものこそ、夢窓自筆の『臨幸私記』であった。行幸が無事終わった後の一一月二四日、崇伝は夢窓自筆の『天龍臨幸私記』を鹿王院へ返却したことが、崇伝の日記である『本光国師日記』にみえている。行幸に際し、崇伝は『臨幸私記』をマニュアルとしていたのである。その後、崇伝は行幸の模様を『寛永行幸記』として、後代の行幸のための規範となるべく書きのこした。この行為も『臨幸私記』を著した夢窓にならったものであろう。江戸幕府においても、夢窓が定めた臨幸の儀礼を継承していたことがわかる。
 森谷尅久『上洛 政治と文化』角川書店(一九七九)は、この行幸によって、幕府が「朝廷を完全に掌握した」ことを指摘し、「たとえ儀式的なものであったにせよ、朝幕間でたびたびおこった政治的軋轢にここで一挙にとどめをさそうとする、巨大なデモンストレーションであった。二条行幸を陰の演出者であり、遠く夢窓国師の『天竜行幸記』にならって『寛永行幸記』を記録した以心崇伝は『聖代不聞斯盛挙』と感慨深く、その序文に認めている」と述べている。
(10) 黒田俊雄「変革期の意識と思想」(注(5)に前掲書)において、変革期である南北朝期にみられる思想の特徴の一つとして、「動乱の展開に対して自己の信念を適用してこれを理解し、動乱によってかえってその信念を強固にしていくかたち」をあげ、「夢窓疎石は、鎌倉幕府後醍醐天皇足利尊氏とつぎつぎに尊崇を受けむしろ世渡り上手とみえるほどに転変を経験した人物であるが、(略)著作に『夢中問答集』がある。そこで彼が、禅の奥旨をしめそうとして世間の人びとの福徳や名利をもとめる心から説きおこしている点は当代の世相を感じさせるが、彼の思想がそこから出発しているのでもなければ、それによって変容したわけでもない。夢窓はあくまで自己の得悟の高みから動乱・転変に対しているのである」と述べている。本稿でとりあげた「霊山付嘱」の故事を根拠として示される彼の王法と仏法との関係も、動乱によってかえって強固になっていった夢窓の「信念」の一つであったと考えられるかもしれない。

〔補注〕
 光厳上皇は禅に帰依し、多くの禅僧と交流をもったが、夢窓疎石天龍寺とのかかわりについて『歴代法皇外紀』より抜粋すると以下の通りである。
暦応二年 冬、勅源尊氏、天龍寺、薦元応(後醍醐)皇帝、請疎石為開山祖、
康永元年 四月、幸西芳寺、従疎石受衣孟、
     七月、勅疎石、慶八坂塔、
貞和元年 八月、慶天龍寺、左梁右■誌文、諸堂椁額悉洒奎翰、詔疎石開堂、賜金襴紫伽梨、二十九日、幸天龍寺疎石陞座演法、感二星降、
貞和二年 二月、幸天龍寺、疎石説法、斎罷、使講伝心法要、
貞和三年 二月、詔志玄(無極)、住天龍、帝又臨幸、
観応元年 二月、召疎石、於内道場受戒、授法名勝光知、道号無範、
観応二年 八月、賜疎石以心宗国師宸奎、
     九月、疎石寝、幸燕親居、視問安否、

 観応二年九月に夢窓が示寂した後は、延文二年(一三五七)九月三〇日に、光明院とともに、伏見雲居庵にて、夢窓の七周忌仏事を行わせた。同日、尊氏・義詮が出席して行われた天龍寺における夢窓七周忌法要を務めたのは夢窓の後継者で、血縁上の甥である春屋妙葩であったが、春屋の夢窓派内において重きが増すにつれて光厳と春屋との関係もまた深まっていった。
 貞治二年(1363)光明院の院旨によって、春屋は伏見に光厳・光明の生母の広義門院が開創した大光明寺の住持に就任し、七月二二日に光厳・光明両院が臨席して行われた大光明寺における広義門院七周忌法要の導師をつとめた。貞治三年四月、春屋が大光明寺を訪れると光厳は春屋の来訪を喜び、終日対語し、遺嘱することが多かった。六月一五日には、宸奎を春屋に下して、播磨南条の地を天龍寺に寄進し、常牧寮のための粥斎料とした。春屋は光厳の寿塔を天龍寺に造営して金剛院と号した。光厳院は七月七日示寂。その葬礼一切は春屋が執り行った。歴代天皇のうち禅宗様式によって大葬がおこなわれた初であった。
 春屋も光厳院を「霊山付嘱」の故事をもちいて称賛していることが、春屋の語録である『知覚普明国師語録』から知られる。「鉄奉聖旨、就于梵王山大光明禅寺、恭為国母広儀門院七周御忌辰」では「伏惟、光厳院、光明院、十善宿因、万乗現果(略)如来以仏法付嘱、金言終不虚矣」とあり、「就等持寺恭為光厳院」(延文二年)では「受勅護法、則不忘如来金言」と見出せる。