禅研究会

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『仏像図彙 祖師・道具部』刊行(禅研究会影印叢刊1)

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仏像図彙


目 次

【影印】
 1章 『仏像図彙』『増補仏像図彙』祖師 ………………… 1
  護法…2  戒賢…3  智鳳…4  窺基…5  清弁…6
  鳩摩羅什…7  道融…8  慧灌…9  世親…10  道空…11
  訶梨跋摩…12  善無畏…13  優婆毱多…14  鑑真…15
  叡尊…16  俊芿…17  普寂…18  恵蔵…19  慧思…20
  智顗…21  章安灌頂…22  湛然…23  最澄…24  円仁…25
  良源…26  円珍…27  源信…28  覚超…29  龍樹…30
  龍智…31  金剛智…32  不空…33  善無畏…34  一行…35
  恵果…36  空海…37  達磨…38  慧可…39  僧璨…40
  道信…41  弘忍…42  慧能…43  馬鳴…44  龍樹…45
  世親…46  菩提流支…47  曇鸞…48  道綽…49  善導…50
  法然…51  親鸞…52  日蓮…53  玄昉・智泉…54 
  菩提僊那明恵…55  行基・貞慶…56  泰澄・良弁…57
  叡尊覚鑁…58  性空・聖宝…59  臨済義玄・百丈慧海…60
  道元隠元…61  夢窓疎石円爾…62  無関普門・春屋妙葩…63
  栄西・関山慧玄…64  宗峰妙超・文覚…65  中将姫・永観…66
  空也・弁長…67  良忍・証空…68  延鎮・称念…69  
  一遍・重源…70  国阿・証空…71  日像・日興…72 
  覚信尼真仏…73  寒山・拾得…74
 《参考資料》『仏像図彙』祖師部の残り
       『増補仏像図彙』当該図版〔明治19年版〕
       十大弟子…76  維摩居士役行者…80  聖徳太子…82

 2章 『増補諸宗仏像図彙』道具 …………………………… 85
       天明3年版:偶数ページ  明治19年版:奇数ページ

 3章 『増補諸宗仏像図彙』序・目録・跋・刊記 ………… 103
       序・目録〔明治19年版〕……………104
       目録〔明治19年版〕…………………107
       跋〔天明3年版〕……………………113
       刊記〔天明3年版・明治19年版〕…114

【解説】西山美香 ……………………………………………… 116

 

 

2021年6月19日発行 定価(本体1250円+税)

 ISBN:978-4-910314-00-6 C1071 ¥1250E

入手方法

①研究会の直接頒布〔現金書留・郵便為替〕

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ご連絡をお願いいたします。お待ちしております。

 

『大唐名藍記・和漢禅刹次第〔中国部〕』(歴史資料叢刊1)

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歴史資料叢刊1

西山美香・王珂・宋力編『大唐名藍記・和漢禅刹次第〔中国部〕』

(2021年6月19日刊行予定)

歴史資料叢刊2

西山美香編『和漢禅刹次第〔日本部〕』(2021年9月19日刊行予定)

歴史資料叢刊3

西山美香編『鎌倉五山記』(2021年9月19日刊行予定)

お問い合わせ:zenkenkyukai☆gmail.com(☆を@にかえてください)

緊急事態宣言のため各機関での閲覧が制限されており、『大唐名藍記・和漢禅刹次第〔中国部〕』の刊行を9月19日に延期し、『鎌倉五山記』といっしょに刊行することにしました。遅れた分だけよい本にできればと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします!

 

禅研究会の本の入手方法

①冊子体版、②POD(プリントオブデマンド)版の2種を予定しています。

①冊子体版:研究会が直接販売。

②POD版:三省堂書店AmazonにおいてPODで販売。カラー表紙。

*①冊子体版を購入された方には領収書・納品書(ともに印なし)を同封します。

*領収書・納品書以外の書類や、独自の書式の領収書・納品書をご希望の方は三省堂書店とご相談のうえ、②POD版を三省堂書店にご注文・ご購入ください。研究会では研究会が定めた書式の領収書・納品書(ともに印なし)以外の書類は発行していません。

 

 

 

 

       

 



初期室町政権を支える〈神話〉 「霊山付嘱」考

PDFは西山 美香 (Mika Nishiyama) - 資料公開 - researchmapで公開中。

 三章  初期室町政権を支える〈神話〉 「霊山付嘱」考〔校正中〕


     1 天龍寺を支える「霊山付嘱」

 貞和元年(1345)4月8日、霊亀山天龍資聖禅寺は法堂の開堂を迎え、足利尊氏・直義兄弟出席のもと法要を行った。天龍寺の開山・夢窓疎石は、さっそく上堂し、天龍寺における最初の説法を行った。『夢窓国師語録』に所収される「天龍寺語録」は、この日の夢窓の説法の記録からはじまっている。
 天龍寺は、後醍醐天皇の七々(四九)忌日にあたる暦応2年(1339)10月5日付の光厳上皇院宣によって、亀山殿を仏閣とし、夢窓疎石にその仏閣の開山になるように定められたことにはじまる。続いて同月13日、光厳上皇は、その仏閣の名を霊亀山暦応資聖禅寺とする旨の院宣を夢窓に下し(その後の暦応4年7月22日、暦応寺は天龍寺にその名を改めた)、新仏閣が禅宗寺院であることが天下に知らされた。
 天龍寺創建の意義については、桜井景雄氏が「尊氏一族は夢窓疎石との間に師弟の関係を結んで、夢窓派の勢力を五山の間に伸張せしむる事に依って、五山を自己の掌中に収めんとした。夢窓派の京都に於ける発展の鞏固なる基礎は天龍寺の創建によって築かれた。(略)天龍寺は(略)夢窓派と足利氏との間に師檀の関係を生じ、鞏固なる結合を生ずるものであった。(略)吉野朝室町両時代に亘り、夢窓派が禅宗の代表的地位を獲得し、至大なる活動を為し得た事は、実に天龍寺の創建に発足すると言ひ得る」(1)と結論づけたように、実際は幕府の主導によって創建された。しかしその実態にもかかわらず、あくまで勅願寺として建立されたことにその特色があるだろう(2)。
 勅願寺である天龍寺の法堂には、「法雷」という勅額が掲げられた。「法雷」とは、『華厳経』の経文に基づいた『証道歌』の「震法雷、撃法鼓」という語をふまえたもので、仏の教法が広く伝わることを雷鳴の響きに譬えた語である。夢窓は上堂において、次のように述べて勅額に謝意を表した。


朝廷は額を賜ふて、扁して法雷と曰ふ。(略)如来法を以て国王大臣に付嘱す。慈鑑の効、此に昭著す。(原文は漢文)

 夢窓は、光厳上皇が法堂に勅額を下賜したことを、「如来は法を国王大臣に付嘱せり」という釈迦の意志にかなった営為であるとし、光厳上皇を理想的「国王」として称賛しているのである。
 その後、同年8月29日、天龍寺にはついに新仏殿(覚皇宝殿)が完成、後醍醐天皇七周忌法要をかねて、盛大にその開堂法要が行われた。これがかのいわゆる「天龍寺供養」である。それに至る経緯や供養の様子は『太平記』に詳しい。山門の激烈な抗議により、光厳上皇の臨幸は29日はとりやめとなり、翌30日に延期された。
 『夢窓国師語録』には、8月30日に臨幸を仰いで行われた法要の際の夢窓の上堂の記録である、「覚皇宝殿慶賛陞座」が収められている。おそらくは『夢窓語録』中、白眉と呼べるものであり、このときの夢窓の強い意気込みをうかがうことができる。
 寺号山号をはじめ天龍寺のすべての堂舎には、光厳上皇の勅額が掲げられた。夢窓はそれに対し、「覚皇宝殿慶賛陞座」において次のように謝意を述べている。


並に是れ太上天皇の奎翰なり。聖志の懇誠斯に彰はれ、祖宗の光幸、見るべし。(原文は漢文)


 ここで夢窓が述べる「聖志の懇誠は斯に彰われ」とは、先の4月8日の上堂における、法堂の勅額についての彼の語と同じ意味である。
 勅額は、勅願寺である天龍寺をまさに象徴するものである。その勅額がよってたつ思想的基盤は、そのまま天龍寺の思想的基盤と考えられるであろう。すなわち天龍寺光厳上皇が「如来は法を国王大臣に付嘱せり」という故事にちなみ、釈迦の遺志に応えたものとして創建されたのである。
 注目すべきは、天龍寺供養の際に、禅律方・藤原有範によって起草された光厳上皇の「天龍寺供養御願文」(『師守記』貞和元年8月29日条所引)においてもこの故事を見出だすことができることであろう。


不違霊山付嘱之仏勅焉、乃命征夷将軍朝臣、新剏叢林之基兆、既成土木之営功、

 ここで光厳上皇は、天龍寺について「霊山」、すなわち霊鷲山において「如来は法を国王大臣に付嘱せり」という釈迦の意志にかなうものとして、「征夷将軍朝臣」に建立を命じたことを宣言しているのである。
 では「霊山の付嘱」・「如来は法を国王大臣に付嘱せり」という故事について、以下検討したい。付嘱(附属・付属とも)とは「仏祖の大法を伝えて後の人に対してその護持を依嘱すること」(『新版禅学大辞典』)である。「霊山の付嘱」・「如来法を以て国王大臣に付嘱す」とは、釈迦が霊鷲山において、自らの滅後、仏法の護持を国王大臣に委嘱したという意味である。
 夢窓は、足利直義との問答の形式をとる『夢中問答集』第10問答で、この故事について述べている。


 問。仏の言はく、仏法をば国王大臣有力の檀那に付属す。しかれば、檀方つつがなくして、仏法も紹隆すべし。僧家も檀方の祈りをせられむは、何ぞ理にそむかむや。
 答。仏の付嘱し給へる意は、国王大臣等、或は外護となり、或は檀越となりて、仏法を流通し、自らもまたこの仏法に入りて、出離せよとの謂れなり。この仏法を以て、世俗の名利を祈り給へとて、付嘱し給へるにはあらず。然らば則ち、世上もをさまり、檀門もつつがなくして、仏法を紹隆し、衆生を利益せむために、御祈りをせよと仰せられ、僧家もこの志を励まして、御祈りを申されば、仏の付嘱に背くべからず。


 そして夢窓は次のように述べて、この問答を締めくくっている。

末代なりといへども、かたじけなく如来の御付嘱にあたり給へるは、嬉しき御事にあらずや。先づ仏の付嘱に背かじと大願を発して、外には大小の伽藍を興隆し、内には真実の道心に安住して、諸宗を流通して、普く善縁を結び、万人を引導して、同じく覚果を証せしめむと、深く誓ひましますべし。もししからば、乃ちこれ真実の御祈祷、広大の御善根なるべし。十善・五戒の宿薫によりて、国王大臣、有力の檀那とならせ給へるも、しかしながら三宝の恩力なり。もし又仏の付嘱に背きましまさば、仏の付嘱をうけざる下賎の人と異ならじ。


 『夢中問答集』は直義との問答の形式をとってはいるが、基本的には夢窓(派)によって新たに著述・編纂されたものと推定される(3)。ただし作品中における夢窓の語は、おそらく日ごろから尊氏・直義に語っていたことと重なると推測され、この第一〇問答に見られる夢窓の思想も、尊氏・直義の宗教事業に大きな影響を与えたものと推定される。
 ここで夢窓は「仏の付嘱に背かじと大願を発して、外には大小の伽藍を興隆し」と述べて、寺塔の建立を強くすすめている。『夢中問答集』における夢窓の語をふまえれば、尊氏・直義は、「仏の付嘱に背かじと大願を発して、外には大小の伽藍を興隆」したと考えてよいであろう。すなわちこれはそのまま室町幕府の宗教的国家事業である天龍寺建立・安国寺利生塔設置の思想的基盤であると考えられるのである。
 また夢窓は、「仏の付嘱に背かじと大願を発して、(略)内には真実の道心に安住して、諸宗を流通して、普く善縁を結び、万人を引導して、同じく覚果を証せしめむ」とも説いている。『夢中問答集』が、直義が夢窓に参禅した形式を持つテクストであることをふまえれば、直義が、自らが参禅した記録の形式をもつ『夢中問答集』を刊行する行為そのものが、「霊山付嘱」の故事によって示される、釈迦の教えに基づいたものであり(4)、第一〇問答はそれを宣言していると考えられるであろう。
 釈迦の霊鷲山における付嘱の故事については、中国の禅籍では『景徳伝灯録』『五灯会元』などに引用が見られるが、日本の禅籍としてははやく栄西(1141~1215)の『興禅護国論』に引用があることが注目される。


第二、鎮護国家門とは、仁王経に云く、仏、般若をもって現在・未来の諸の小国王に付嘱して、もって護国の秘法とすと。その般若とは禅宗なり。謂く、境内にもし持戒の人有れば、すなわち諸天その国を守護すと云々。(原文は漢文)


 ここで栄西が「仁王経に云く」とするように、これは護国の根本義を説いた経典である『仁王般若経』巻下「受持品」にみられる故事である。


仏告波斯匿王、 我当滅度後法欲滅時、 受持是般若波羅蜜、 大作仏事、 一切国土安立、万姓快楽。皆由般若波羅蜜。 是故付嘱諸国王、 不付嘱比丘比丘尼清信男清信女。 何以故、無王力故、故不付嘱。(『大正蔵』八・八三二b)


 栄西はこの経文を「護国の秘法」とし、釈迦が国王大臣に付嘱した仏法とは禅であり、つまり禅宗こそが鎮護国家を担う国家宗教であるという、『興禅護国論』「鎮護国家門」の主張の根拠として用いている。
 この主張は栄西にとどまらず、その後の無象静照(1234~1306)『興禅記』に、もっと鮮明にうち出されている。


塵中に在りと雖も、宰官の身を現じて、内外護となる。法海の中に於て、能く津済を致す、欲に在って禅を行ず、火中に蓮を生ずるものなり。是れを以て諸王群臣、或は寺宇を建て、或は田園を置いて、如来の付嘱を忘れず、其の真正の釈子をして、安心行道として、方に随って化を設けしむ。則ち諸天善神、誓願力に乗じて、来って其の国を守る。誠に所謂国家の盛衰は、仏法の興亡に在るものか。然も法は人に由って興り、道は縁を待って顕はる。法あれども僧宝なければ、其の名を存すと雖も、而も其の法伝はることなし。道あれども檀資なければ、其の志を立つと雖も、而も其の道興り難し。仏経を聞くに、曰く、「昔世尊、霊山会山に在って、諸大弟子に告げて曰く、我れ滅度の後、清浄の正法、悉く以て国王、大臣、有力の檀那に付嘱す、能く外護を致し、能く興持をなし、正法の化益をして、未来世に及ぶまで、断絶せしむることなからしむ」と。此の言に由らば、仏教の損益弛張、国王、大臣、有力の檀那の慈明にあり。(原文は漢文)


 夢窓も、先に見た天龍寺供養(8月30日)の説法において、「祖宗の光幸、見るべし」と、釈迦が国王大臣に付嘱したのは禅宗だと述べており、夢窓の主張は栄西・無象の主張を受け継ぐものであることがわかる(5)。つまり、この霊鷲山における故事は、国家宗教としての日本禅宗の正統性を保障する、もっとも聖なる〈神話〉であったと考えられるのである。

 

     2 利生塔を支える「霊山付嘱」

 次に利生塔と関わる資料において、この故事についてみてみたい。室町幕府のお膝元である山城国の利生塔であり、利生塔を代表・象徴する寺塔と考えられる、法観寺八坂塔とかかわる資料を検討することにする。足利尊氏・直義は法観寺の利生塔編入にあたり、五重塔の補修を行い、それが成った康永元年(1342)8月5日、夢窓疎石を導師に迎えて供養を行った。『夢窓国師語録』にはそのときの夢窓の説法の記録「欽奉聖旨慶賛京城東山八坂宝塔」が所収されている。以下本稿の主題とかかわる部分のみ抄出する。


伏して惟んみるに、征夷大将軍、左武衛将軍両殿下、英傑を天賦に稟け、武門の遺風を玷さず、善本を夙生に殖ゑ、鷲嶺の付嘱に相符ひ、左武右文、王室の機括を為すに堪へたり。内真外俗、寔に是れ法城の金湯。茲者、元弘以来、国家大いに乱る。賢懐を想ひ料るに爰ぞ悪を介むこと有らん。祇天災不虞に起って人民を傷害すること尠からず、舎宅を焚焼する幾何ぞ。此の悪縁に因って、翻って善願を発す。其の善願は、所謂、六十余州の内に於て、州毎に一基の塔を建てんと欲するものなり。其の旨趣は敢て私家の為にするにあらず、仏法王法同時に盛に興らんことを祈らんと欲す。其の回向も亦自利の為にするにあらず、此方他方一切の含識を済はんと欲す。具に精悃を陳べて、上、聖聞に達す。其の志は叡襟に協ひ、亦同じく大願を発し、乃ち主の幹を武将に命じて、以て締構を諸州に成す。或は新たに営功を樹て、或は重ねて廃祉を補ふ。今此の当山の霊塔、是れ其の一なり。(略)於戲、如来仏法を以て国王大臣有力の檀那に付嘱す。金言虚ならず、得て験みつべし。昔、本朝伽藍の興建、此の地、是れを権輿と為す、今、諸国塔婆供養は、此の地、亦先鋒と作す。其の感応冥符に由って、此の縁遇際会を知る。仏法の流布すること、既に此の精舎従り始まり、仏法の再興することも亦此の精舎に資るものか。阿育王曾て八万四千の塔廟を造る、皆八祥の霊地を択んで以て址基と為せり。榑桑国新たに六十六箇の浮図を立つ、先ず八坂の精藍に於て供養を修す。(原文は漢文)


 この説法でも夢窓は二箇所で、「霊山の付嘱」を引用している。そして尊氏・直義が「六十余州の内に州毎に一基の塔を建」てること、すなわち利生塔が「鷲嶺の付嘱」にかなった営為であるとし、「上、聖聞に達し、其の志は叡襟に協い、亦た同に大願を発こしたまえり。乃ち主幹を武将に命じて、締構を諸州に成さしむ」として、利生塔もまた、勅願によるものであることを宣言している。
 わたくしは、利生塔のモデルとして、阿育王、呉越の銭弘俶、源頼朝の八万四千塔供養を推定しているが(6)、夢窓の後継者である春屋妙葩の語録『智覚普明国師語録』巻3に「呉越王不忘霊山附嘱之大願力。(略)王效阿育王八万四千塔婆」とみえ、利生塔と同じく、「霊山付嘱」が動機とされていることが注目される(『大正蔵』80・666c)。また康永三年一〇月八日付の直義自筆の跋文をもつ『高野山金剛三昧院短冊和歌』について検討し、同書の編纂・奉納は、利生塔設置の意義を確認・表明するためのものであった可能性が高いことを推定した(7)。
 『金剛三昧院短冊』の巻軸歌は、直義の次の歌である。
霊山の付属を今も忘れねば君がまもりて法ぞ久しき
 ここで直義が「霊山の付属」を詠んでいることが注目されるであろう。この直義の和歌は、自らが編纂・奉納の実務を担っていた『金剛三昧院短冊』が、「霊山の付嘱」の故事にかなった営為であることを宣言するものと考えられる。そして直義が「君」と呼ぶ人物は、釈迦から仏法を付嘱された「国王」であるから、おそらくはこの作品に和歌を寄せた、当時の治天たる光厳上皇と考えてよいであろう。直義は光厳上皇がこの作品に和歌を寄せたことに謝意を示すとともに、光厳上皇を理想的な「国王」として称賛しているのである。そして直義がこのような歌を詠んでいることによって、光厳上皇を頂点とする政権の反映として、『金剛三昧院短冊』を編纂していたことが判明するのである。
 またわたくしは『金剛三昧院短冊』の直義の跋文と、『夢中問答集』の跋文(再跋)の日付とがまったく同日であることを指摘し、この二つの作品がともに、直義と夢窓が中心人物として関わっていることから、『金剛三昧院短冊』と『夢中問答集』は機をあわせて制作された作品、いいかえれば対の作品であったという可能性を指摘した(8)。すなわち『金剛三昧院短冊』奉納と『夢中問答集』刊行は、尊氏・直義が夢窓を師とし、三宝に帰依し、菩提心を発し、仏道(禅)修行を行っていくことを宣言したものであり、安国寺利生塔設置・天龍寺創建・『夢中問答集』刊行・『金剛三昧院短冊』奉納は、幕府の宗教事業としてその基底で連携し、それらの目的も響きあっているのである。そしてそれらのすべてを推進する尊氏・直義の営為の動機であり、それらを保証しているものが、「霊山の付嘱」の故事であったと考えられるのである。
 ではそれら一連の営為において共通する目的とは、いったい何なのだろうか。先に見た『夢中問答集』第10問答をここでもう一度確認してみたい。この問答の問は、「仏法をば国王大臣有力の檀那に付属す。しかれば檀方つつがなくして、仏法も紹隆すべし。僧家も檀方の祈りをせられむは、何ぞ理にそむかむや」というものであった。つまり仏教における国家的祈祷が問題となっていることがわかる。夢窓はそれに対し、「世上もをさまり、檀門もつつがなくして、仏法を紹隆し、衆生を利益せむために、御祈りをせよと仰せられ、僧家もこの志を励まして、御祈りを申されば、仏の付嘱に背くべからず」と答えている。すなわちこの故事は、仏教(禅)における国家的祈祷の思想的根拠でもあったことがわかるであろう。
 夢窓は『夢中問答集』第10問答で、次のようにも述べている。
古への大師高僧の、国家を祈り災厄を払ひ給ふことは、これを方便門として、衆生を接引して、大菩薩を証せしめむためなり。
 夢窓の主張によれば、僧侶による国家的祈祷の目的は、あくまで衆生を教化することであり、「国家を祈り災厄を払う」祈祷は方便に過ぎない、という。この彼の主張は、当時尊氏・直義とともに、鎮護国家を目的とした宗教事業を推進する夢窓自身の立場・主張の根拠を表明するものであったとも考えられるであろう。
 すなわち尊氏・直義と夢窓によって推進された国家的宗教事業は、「霊山の付嘱」を思想的基盤としており、それは鎮護国家を目的とした国家的祈祷の役割を担っていた。そして、それは「檀門」だけの利益を祈るものではなく、「国家を祈り災厄を払ひ給ふこと」を方便として、一切衆生を利益することを目的としたものであったのである。

 

     3 国王の資格としての「霊山付嘱」

 観応2年(1351)9月30日、夢窓疎石臨川寺三会院南詢軒にて示寂した。世寿七七歳。夢窓は示寂前年の観応元年(1350)11月上旬、『臨幸私記』を著した。現在も夢窓自筆本が、京都鹿王院に残されている。『臨幸私記』は天龍寺における臨幸の「日時と上皇奉接の礼儀の次第」をまとめたものであり、その編纂の目的は、夢窓が「帝王臨幸の際における奉接の儀礼を、後人のために多くの例を挙げて説明し、一方渡来僧に対し、わが国特有の風習のあることを知らしめんがため」のものとさ(れる(9)。
 叙述の中核は貞和2年(1346)2月17日の光厳上皇天龍寺臨幸の記録である。夢窓は光厳上皇天龍寺臨幸を、帝王臨幸の規範と定めたのであった。
 光厳上皇が法堂に座し、住持(夢窓)が入堂した部分をみてみたい。


上皇従仏殿後門直入法堂。(略)将軍参会(略)住持入堂。(略)問答罷。略叙国王皆稟仏遺嘱之因由云々。


 夢窓が臨幸の際に法堂において、上皇に「国王皆仏の遺嘱を稟くるの因由」、すなわち「霊山付嘱」の故事の意義について説いていたことがわかる。これは光厳に王としての自覚を促すとともに、その場にいる人々に光厳の王たる立場を知らしめることを目的としていたと考えられるであろう。
 夢窓は示寂一ヶ月半前の8月16日に、再住していた天龍寺において、後醍醐天皇一三周忌法要の導師をつとめた。『夢窓国師語録』「再住天龍寺語録」はこの日の夢窓の上堂の記録で終わっている。夢窓の人生最後の上堂であった。
 夢窓は次のように語っている。


人間第一の輪王も亦是れ夢中の宝位、梵世最高の天王も亦夢中の快楽なり。是の故に釈迦如来、輪王の位を棄てて、山に入りて苦行す。其の意、何んぞや。蓋し人をして各、無上覚王の、世間の尊貴に超越することを知らしめんが為の故耳。(略)恭しく願はくは、上皇頓に塵機を転じて、妄宰に拘らず、速かに業識を翻して、霊知を証得し、怨親差別の昏衢を超越し、迷悟一如の霊域に優游し、鷲嶺の付嘱を忘るることなく、生生法門を保護し、亀山寂場を動ぜず、刹刹群類を利済せん。武家が祈り奉る願望、既に爾も斯くの如し。上皇の叡念、寧ろ之が為に消融せざらんや。(略)若し爾らば則ち干戈永に止みて四海清平に、災厄は咸く消して万民康泰ならん。武運綿綿として永く奕世に伝へ、願心浩浩として普く含情に及ぼさん。(原文は漢文)


 夢窓が迫る自らの死を目前にし、「上皇」と「将軍」に、「王」としてのあるべき姿を説く部分である。夢窓は、後醍醐天皇が亡くなった後も、戦乱が続く状況をふまえ、人間第一の王たる輪王も「夢中の王」「夢中の快楽」であり、釈迦はそれを知っていたため、輪王である地位を捨てて山に入って修行したとし、「上皇」と「将軍」にもその地位に溺れることなく、仏弟子として修行すべきことを説いている。そして夢窓は、その拠点、すなわち修行の道場が、「亀山寂場」(天龍寺)であることを宣言し、そうすれば「干戈永に止みて四海清平に、災厄は咸く消して万民康泰ならん。武運綿綿として永く奕世に伝へ、願心浩浩として普く含情に及ぼさん」と述べている。夢窓はここでも「鷲嶺の付嘱を忘るること無く」を根拠として、「王」に仏法の護持を説いている。
 近江に出陣中の尊氏はこの場にいなかったが、16日付の置文を夢窓に遣わし、足利将軍家一族が末代に至るまで、永久に天龍寺・夢窓派に帰依することを確約した。夢窓は翌一七日に天龍寺住持を辞した。彼の体調は徐々に後退し、9月1日には「吾れ行かんこと必なり」と述べるに至る。9月7日、19日には、光厳・光明両院が夢窓を見舞うために天龍寺に臨幸した(『園太暦』)。そして9月29日、夢窓は遺誡十数条を弟子に付し、また遺偈を尊氏に寄せ、直に会って別れを告げられない旨を書き、辞世の頌を記した。そして「老僧已に手臂の不仁を覚ゆ。明日行かん」と述べ、まさにその言の通り、翌30日示寂した。
 夢窓が尊氏によせた遺偈は次のようなものであった。


真浄界中無別離。 何須再会待他時。
霊山付嘱在今日。 護法権威更仰誰。


 夢窓は自らの死にあたり、「護法」を「王」尊氏に遺言する「今日」を、かつて釈迦が霊鷲山において、自らの滅後、仏法の護持を国王大臣に付嘱したことになぞらえている。夢窓がその死の直前まで一貫して説いた「王(為政者)のあるべき姿」が、「護法」であり、夢窓が尊氏・直義と共同で行った宗教事業の思想基盤が、「霊山付嘱」の故事にあったことが、この遺偈からもうかがわれるであろう(10)。
 夢窓が『夢中問答集』第一〇問答において述べる、「国王大臣」は「或は外護となり、或は檀越となりて、仏法を流通し、自らもまたこの仏法に入りて、出離せよ」とは、仏教(禅)における「国王」(為政者)のあるべき姿を示しており、それは、鎌倉・室町幕府の為政者の帰依を受けて、その政権を保証する役割を担った臨済僧たちが、為政者たちに説いていた「あるべき王(為政者)の姿」であったと推測される。そして「もし又仏の付嘱に背きましまさば、仏の付嘱をうけざる下賎の人と異ならじ」と述べることから、夢窓の思想においては、「霊山付嘱」の故事に応えることが、「国王大臣」であることの〈資格〉として機能しており、「霊山付嘱」の故事を思想基盤とする宗教事業--安国寺利生塔設置・天龍寺創建・『夢中問答集』刊行・『高野山金剛三昧院短冊和歌』奉納--こそが、院政を戴く初期室町政権の正統性を支えていたのである。そしてそれは、臨済禅を国家宗教とした、鎮護国家を目的とする祈祷の役割を担っていたのであった。

注(1) 『南禅寺史』法蔵館(1977)。
(2)(3) 本書Ⅰ部二章を参照。
(4) 『夢中問答集』の終わりから二番目の問答である、第九二問答には、次のような直義の語が見られる。
問。日来相看の次いでに問答申したることを、何となく仮字にて記し置きたり。是を清書して、在家の女性なむどの、道に志ある者に見せばやと存ずるは、苦しかるまじきやらむ。
 西村恵信『夢中問答 禅門修行の要領』日本放送出版協会(一九九八)は、第九二問答について『夢中問答集』刊行の意義として、直義の「利他の精神」を指摘する。
仏道修行について、直義という一人の求道者と、夢窓という善知識との間に行われた問答は、その都度完結した歴史的一回性のできごとであるから、それを記録して、問答の場に居合わせなかった人に伝えるということは、いわば無用の閑事であることは、誰の目にも明らかであろう。しかるに直義はそのことを百も承知で、問答を記録し、清書し、他に喧伝することの許しを乞うているのである。そこにこの問答を自分一人のこととして終わらせてしまいたくないという直義の利他の精神が見えている。(略)実際、今日われわれがこのようにして『夢中問答』を、自分たちの求道の指針とすることができるのも、この第九十二段の問答にもとづいているのであり、そこに、この一見禅から見て本質的とも思えないようなこの問答が、わざわざ一つの問答として本書の中へ収められていることの意味があるのであろう。
 私見では、『夢中問答集』が夢窓(派)によって編纂されたテクストである以上、直義の肉声ではないが、直義の意向を夢窓が汲むとともに、また夢窓によって「利他の精神」を持つ為政者として『夢中問答集』に表現されたと考える。
(5) 今枝愛真「『興禅護国論』『日本仏法中興願文』『興禅記』考」『史学雑誌』九四-八(1985・8)は、『興禅護国論』『興禅記』を近世期の偽書とする。私見では、『夢中問答集』と両書の共通する部分を比較すると、『夢中問答集』が両書より先行すると考えるのは難しく、現存のテキストとの違いははっきりしないものの、両書は『夢中問答集』より以前の成立であり、一応現時点ではそれぞれ栄西と無象の真作と考える。
   黒田俊雄「王法と仏法」『増補新版 王法と仏法 -中世の構図』法蔵館(2001)は、「保安四年(1123)7月の石清水八幡への『白河法皇告文』には『伏して惟れば、王法如来の付属に依て国王興隆す。是を以て仏法は王法保護してこそ流布すれ』とあるが、これはインドの転輪聖王の理想をみることができ、事実当時のものに国王を転輪聖王に見立てた記述は少なくない。仏法が王法と対等であるだけでなく、むしろ理念的には仏法が優越しているのである」と指摘するように、臨済禅独自のものではない。曹洞禅でも道元が『正法眼蔵』「弁道話」執筆の動機とし、日蓮守護国家論』にもみえる。
   『夢中問答集』において、直義が転輪聖王聖徳太子に夢窓によってなぞらえられていることは本書Ⅱ部四章で、「仏法を護持する武家政権の理想的為政者」という姿が、聖徳太子源頼朝説話と結びつく諸相についてはⅠ部一章で論じた。
(6) 本書Ⅰ部一・四章を参照。
(7)(8) 本書Ⅰ部四章を参照。
(9) 加藤正俊編著『夢窓国師遺芳』大本山天龍寺(二〇〇〇)。
  夢窓は光厳に「無範」という道号を与え、次のような詩を詠んでいる。
      無範光厳法皇
    世間枢要没交渉 仏祖楷模也浪施
    声迥迥兮空索索 鳳栖不在嬰梧枝
 柳田聖山『日本の禅語録 七 夢窓』講談社(一九七七)は「仏祖楷模」を「ブッダが在家の国王大臣等に末世の護法を属したこと、仁王経の経説を指す」とする。
 江戸時代初頭、後水尾天皇寛永三年(一六二六)九月六日から七日にかけて、江戸幕府三代将軍徳川家光の滞在する二条城への行幸を果たし、贅を尽くした華麗なる大祝宴が四日間くりひろげられた。その行幸を陰でとりしきった「黒衣の宰相」こと南禅寺金地院・以心崇伝が、行幸の間手元に置いていたものこそ、夢窓自筆の『臨幸私記』であった。行幸が無事終わった後の一一月二四日、崇伝は夢窓自筆の『天龍臨幸私記』を鹿王院へ返却したことが、崇伝の日記である『本光国師日記』にみえている。行幸に際し、崇伝は『臨幸私記』をマニュアルとしていたのである。その後、崇伝は行幸の模様を『寛永行幸記』として、後代の行幸のための規範となるべく書きのこした。この行為も『臨幸私記』を著した夢窓にならったものであろう。江戸幕府においても、夢窓が定めた臨幸の儀礼を継承していたことがわかる。
 森谷尅久『上洛 政治と文化』角川書店(一九七九)は、この行幸によって、幕府が「朝廷を完全に掌握した」ことを指摘し、「たとえ儀式的なものであったにせよ、朝幕間でたびたびおこった政治的軋轢にここで一挙にとどめをさそうとする、巨大なデモンストレーションであった。二条行幸を陰の演出者であり、遠く夢窓国師の『天竜行幸記』にならって『寛永行幸記』を記録した以心崇伝は『聖代不聞斯盛挙』と感慨深く、その序文に認めている」と述べている。
(10) 黒田俊雄「変革期の意識と思想」(注(5)に前掲書)において、変革期である南北朝期にみられる思想の特徴の一つとして、「動乱の展開に対して自己の信念を適用してこれを理解し、動乱によってかえってその信念を強固にしていくかたち」をあげ、「夢窓疎石は、鎌倉幕府後醍醐天皇足利尊氏とつぎつぎに尊崇を受けむしろ世渡り上手とみえるほどに転変を経験した人物であるが、(略)著作に『夢中問答集』がある。そこで彼が、禅の奥旨をしめそうとして世間の人びとの福徳や名利をもとめる心から説きおこしている点は当代の世相を感じさせるが、彼の思想がそこから出発しているのでもなければ、それによって変容したわけでもない。夢窓はあくまで自己の得悟の高みから動乱・転変に対しているのである」と述べている。本稿でとりあげた「霊山付嘱」の故事を根拠として示される彼の王法と仏法との関係も、動乱によってかえって強固になっていった夢窓の「信念」の一つであったと考えられるかもしれない。

〔補注〕
 光厳上皇は禅に帰依し、多くの禅僧と交流をもったが、夢窓疎石天龍寺とのかかわりについて『歴代法皇外紀』より抜粋すると以下の通りである。
暦応二年 冬、勅源尊氏、天龍寺、薦元応(後醍醐)皇帝、請疎石為開山祖、
康永元年 四月、幸西芳寺、従疎石受衣孟、
     七月、勅疎石、慶八坂塔、
貞和元年 八月、慶天龍寺、左梁右■誌文、諸堂椁額悉洒奎翰、詔疎石開堂、賜金襴紫伽梨、二十九日、幸天龍寺疎石陞座演法、感二星降、
貞和二年 二月、幸天龍寺、疎石説法、斎罷、使講伝心法要、
貞和三年 二月、詔志玄(無極)、住天龍、帝又臨幸、
観応元年 二月、召疎石、於内道場受戒、授法名勝光知、道号無範、
観応二年 八月、賜疎石以心宗国師宸奎、
     九月、疎石寝、幸燕親居、視問安否、

 観応二年九月に夢窓が示寂した後は、延文二年(一三五七)九月三〇日に、光明院とともに、伏見雲居庵にて、夢窓の七周忌仏事を行わせた。同日、尊氏・義詮が出席して行われた天龍寺における夢窓七周忌法要を務めたのは夢窓の後継者で、血縁上の甥である春屋妙葩であったが、春屋の夢窓派内において重きが増すにつれて光厳と春屋との関係もまた深まっていった。
 貞治二年(1363)光明院の院旨によって、春屋は伏見に光厳・光明の生母の広義門院が開創した大光明寺の住持に就任し、七月二二日に光厳・光明両院が臨席して行われた大光明寺における広義門院七周忌法要の導師をつとめた。貞治三年四月、春屋が大光明寺を訪れると光厳は春屋の来訪を喜び、終日対語し、遺嘱することが多かった。六月一五日には、宸奎を春屋に下して、播磨南条の地を天龍寺に寄進し、常牧寮のための粥斎料とした。春屋は光厳の寿塔を天龍寺に造営して金剛院と号した。光厳院は七月七日示寂。その葬礼一切は春屋が執り行った。歴代天皇のうち禅宗様式によって大葬がおこなわれた初であった。
 春屋も光厳院を「霊山付嘱」の故事をもちいて称賛していることが、春屋の語録である『知覚普明国師語録』から知られる。「鉄奉聖旨、就于梵王山大光明禅寺、恭為国母広儀門院七周御忌辰」では「伏惟、光厳院、光明院、十善宿因、万乗現果(略)如来以仏法付嘱、金言終不虚矣」とあり、「就等持寺恭為光厳院」(延文二年)では「受勅護法、則不忘如来金言」と見出せる。

西山美香『武家政権と禅宗』笠間書院(2004)Ⅲ部「東山殿西指庵障子和歌」の時空観 ー足利義政の内なる夢窓疎石ー①

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   Ⅲ部 「東山殿西指庵障子和歌」の時空観 ー足利義政の内なる夢窓疎石ー①

 

   はじめに ー禅宗和歌史序説ー

  夢窓疎石の著作のなかでもっとも流布した作品が、仮名法語集『夢中問答集』と彼の家集であることは、ほぼ間違いのない事実であろう。『夢中問答集』は「室町、江戸を通じて度々刊行され、禅宗系の仮名法語としては、最も読まれたもの」(1)であった。『夢中問答集』がひろく読まれたことは、本書においてこれまで検討したごとく、同書が、中世禅林の主流派たる夢窓派の派祖で、「七朝国師夢窓疎石自身の「日本禅宗の正典」たらんとする意欲によって刊行された以上、必然の結果とも考えられる。では、夢窓の家集がひろく一般に読まれた理由はいかなるところにあるのであろうか。

 夢窓が今日もひろく知られる存在であることは改めて述べるまでものないことであるが、夢窓が今日に至るまで長く敬愛された理由を考えると、彼が宗教家として愛された以上に、彼の思想が普遍性をもち、『夢中問答集』などの法語(思想的著作)によって、現在に至るまで人々(読者)を救済(教化)し続けているからと考えられる。が、それと同時に(実はそれ以上に)本人に備わるパーソナリティーによって、人を魅了しているからだと思われる。『夢中問答集』が長きにわたり広い読者層に読まれたのも、夢窓人気のあらわれと考えられる。

 中世から、夢窓に関する伝承や説話が数多く生産され、それらを通じて夢窓はひろく親しまれる存在であった(2)。現代のわれわれにとって、おそらくもっとも親しまれている夢窓説話は、「むかし、夢窓国師という禅家の僧が、美濃の国をひとりで行脚しているとき、道をおしえてくれるものもないような山の奥で、道に迷った」という書き出しではじめられる、ラフカディオ・ハーン(1850~1904)の『怪談』の「食人鬼」の話だろう。この話〈は近世では宝永元年(1704)成立の『和語連珠集』巻3「食人鬼」に類話がみられ、そしてそ〉の取材源としては永正9年(1512)成立の『法華経鷲林拾葉鈔』巻23普門品第25が指摘されている(3)。すなわち、この説話が中世から流布していたことがわかる。

 「食人鬼」説話における夢窓は、諸国を行脚する旅の僧という姿(4)であるが、この例のごとく、説話における夢窓は、旅と結びついた例が多くみられる(説話・伝承が生まれる場として、旅の途上というのは一つの定型パターンではあるのだが)。また他に、説話上の夢窓をみてみると、和歌と結びつく話が多く見られることも特徴の一つといってよいであろう。そのような説話・伝承における夢窓像を象徴する一例を、文化10年(1813)刊行『女今川操文鑑』(5)にみてみたい。

 中昔のころ、京都に夢窓国師と申しける智識ましまして、狂歌を読みて衆生を済度し、諸国行脚し給ひける時に、播磨の城下、姫路の町にて、喧嘩ありて、人々立騒ぎ、制すれども左右きき入れもせず、たがひに負じとつかみ合けるが、一人の男、国師を見付て、声をかけ、相手にむかひ云やう、「此喧嘩を暫まて。国師様に理非を聞分てもらひ、其うへにて、理の悪き方は謝るべし」と。左右方得心して、国師の前に膝まづき、たがひに理をいふて争ふを、国師きき給ひ、宣ふやう、「今より後は、喧嘩口論、そうじて腹の立ぬまじなひ、短気やむ堪忍の御符を授べし」と、あたりの家に立より玉ひ、硯ひきよせさらさらと書したため、両人の者に授て立去り給ひける。家の主、其護符を手に取て戴拝見すれば、護符にはあらで、一首の狂歌をぞ書たまふ。よみて見れば、

  世の人の無理を道理と聞きながし 我理をいはずうつむいて居よ

(略)有がたき御符かなと、人々感心して、其ころ守袋に入るとて書写し、諸国にもてはやしけるが、今はむかし成とて知る人まれにぞ成ける。

 この説話からも、伝承における夢窓が「狂歌を読みて衆生を済度し、諸国行脚」した僧の姿に集約されたことがわかる。

 ただし、夢窓の主著であり、彼の著作のなかでもっとも流布したものである『夢中問答集』は、「構成、叙述の余りに淡々として、教義上の建前に終始し、夢窓の人柄が語られない憾み」(6)も指摘されている。つまり『夢中問答集』には、後に伝承や説話で描かれるような夢窓像につながる、彼の個性や人間性を認めることが皆無ではないにしろ、非常に難しいのもまた事実なのである。そう考えると、夢窓が長きにわたって愛された背景には、夢窓の個性や人間性を伝えるテクストが『夢中問答集』以外に存在したのではないだろうかと推測されるのである。

 おそらくその役割を夢窓の家集が果たしたのではないだろうか。夢窓家集には、夢窓が三〇歳頃から没する直前までに全国各地で詠んだ歌が多く収められている。すなわち彼の家集は、いわば夢窓の「伝記」の役割を果たしているのである。彼の家集は彼の人間性の部分を最もよくあらわすテクストとして読まれたとも考えられるだろう。

 川瀬一馬氏『夢窓国師 禅と庭園』(7)は、夢窓疎石の行脚の跡を川瀬氏がプロのカメラマン(名鏡勝朗氏)とともに訪れ、美しい写真とともに〈(夢窓が滞在した地は風光明媚な場所が多いせいであるが)〉、夢窓の伝記を紹介した豪華写真集であるが、このような本を作ることができるという禅僧も、おそらく夢窓以外には思いあたらないであろう。そして川瀬氏によって記された解説には、夢窓がそれぞれの地で詠んだ和歌が引用されている。『夢窓国師 禅と庭園』はいわば川瀬氏の、夢窓歌の歌枕巡り旅行記として読むことができるのである。

 そしてこのような旅をしたのは、実は川瀬氏がはじめてというものではなく、近世期の俳僧・蝶夢(1732~95)は、夢窓歌の歌枕を訪ねた旅日記『宇良(裏とも)富士紀行』(8)をものしている。また蝶夢が尊敬した、芭蕉の『奥の細道』や『嵯峨日記』にも夢窓の姿がほの見える(9)。また五山僧・万里集九も『梅花無尽蔵』において、夢窓ゆかりの土地を訪れ、その感動を詩に詠んでいる。

 彼らの行為はたんに名所旧跡を訪れるという「物見遊山」ではなく、夢窓疎石という過去の僧の確かな存在を体感し、夢窓にわが身をなぞらえようとする、時間と空間を超越した身体的行為であるだろう。隠遁と旅を繰り返しながら、創作活動にあけくれた、万里や芭蕉や蝶夢らにとって、夢窓疎石とはまさにその理想、あるべき姿として君臨していたのではないだろうか。

 五山禅林最大の学僧の一人・桃源瑞仙(1430~89)は「吾が七朝帝師(夢窓)は曾て此(和歌)に長ず、到る処に吟詠し、その幾千万首かを知らず、その風韻や未だ必ずしも西行法師の制作に滅せず、今に至るも皆人口に膾炙するもの少なしとせず」と「夢窓国師の和歌に優れしこと」を記した(10)。「幾千万首」という数字が、実態ではないにしろ、夢窓の和歌は(おそらくは「伝」夢窓歌を多くふくむのであろうが)、五山禅林において大量に伝えられていたことがわかる。そして夢窓は、禅林においては西行の後継者と位置づけられていたのである。これは自著『夢中問答集』において、夢窓が自らを西行になぞらえていたこと(11)の影響なのかもしれないが、それがあながち彼のうぬぼれではなかったことを示しているだろう。

 夢窓の伝承は旅と和歌に結びつくことから、西行伝承との近似性が指摘できる。それを象徴するものとして、夢窓と遊女の和歌の贈答説話がある。寛正10年(1798)刊行『浄土真宗玉林和歌集』巻4に、

   遊女萩愛執於天龍寺夢窓国師而一首

清くとも一度は落ちよ滝の水濁りて後に澄まぬ物かは

   国師返し

さらでだに消ゆべきほどの露の身を落ちよと誘ふ萩の上風

 とある。この贈答もすでに室町時代末期成立の『大徳寺夜話』(13)に見え、中世からひろく知られる説話だったようだ。遊女と夢窓の伝承は、静岡県島田市川根町家山に今もある野守池が知られる。島原の遊女・野守が夢窓を慕い、京からはるか遠江まで夢窓を追ってきたものの、夢窓への恋がかなわず悲しみのあまり身投げしたため野守池とよばれるという伝説を、享和3年(1803)ころ成立の『遠江古迹図会』が伝えている(14)。

 夢窓の行状を記した『夢窓国師年譜』の正安2年(1300)条には、夢窓が松島を訪れた記録が記されている。夢窓は、松島で夢窓と法華経読誦の僧・頼賢と出会った。頼賢は、『撰集抄』で知られる見仏の「再来」とも呼ばれる僧であった。「西行の後継者」夢窓と「見仏の再来」頼賢との出会いは、和歌こそ残されていないが、『撰集抄』における西行と見仏遭遇の再現を思いおこさせ、『夢窓年譜』における松島の記事こそが、「狂歌を読みて衆生を済度し、諸国行脚」した夢窓説話の原点とも思われるのである。

歌人としての夢窓の活動を、家集の詞書によって確認してみると、冷泉為相との交流や、法談中やその後に和歌を詠んだことが知られる。以下にその例をあげる。

 

○鎌倉亜相(尊氏)并武衛直義朝臣臨川寺の前にて会のありけるに来臨、法談の後、嵐山の花を見て、当座の人人歌よみける次に(『正覚』3)
征夷将軍尊氏、西芳寺の花のさかりにおはして、法談之後歌よみける次に(『正覚』9)
○貞和六年仲春廿六日、征夷将軍于時亜相并典厩義詮、西芳寺に来臨、法談の後、庭前花下にて人人歌よみける次に(『正覚』30)
○観応三年廿一日、左武衛将軍禅閣并相公羽林同道して来臨、法談後、庭前花下にて人人歌よみける次に(『正覚』33)
○二階堂出羽入道道蘊亭にて、中納言為相卿、暁月房侍従為守入道など参会、法談の後、人人歌よみけるに、迷情之中仮有生滅と云ふ題にて(『正覚』45)
○左武衛将軍西芳精舎に来臨、法談の後、人人歌よみける次に(『正覚』66)
○弾正親王西芳寺におはして、法談ののち、歌よみたまひける次に(『正覚』83)


 また金沢文庫に残される彼の法談の記録においては北条高時の母、覚海尼への書信で「詠歌の工夫を通して、安心立命と真実道人のあり様を平易委細に説示し」(15)、その末尾には覚海尼が夢窓に呈した歌一首に対する、夢窓の返歌を添えられているのも注目される。夢窓は書信によって教えを説く際も和歌を用いていたことが知られるのである。
 勅撰集には十一首が入集(『風雅集』に四首、『新千載集』に一首、『新拾遺集』に三首、『新後拾遺集』に三首)。また連歌の作者としても知られ、二条良基は『筑波問答』において


 おほかた、過去現在の諸仏も、歌を唱へ給はずといふ事なし。あらゆる神仏いにしへの聖たちも、歌にておほく群類をみちびき給へば、今さら申すに及ばず。連歌はことに心あらん人思ひ入りてし給ふべきにや。されば、近くは仏国禅師・夢窓国師など昼夜もてあそばれし事、さだめて様あるらん、さだめて得も侍るらし。


と「歌にておほく群類をみちび」いた人物と述べている。『菟玖波集』には十三句が入集している。
 現在伝えられている「夢窓家集」はいずれの系統も他撰集で、夢窓疎石の没後に編纂されたと考えられている(この点については次章において後述する)。すなわち家集は、歌そのものは夢窓の作品であるのだが、テキストとしては厳密な意味で夢窓の著作とはいえず、むしろ、家集に見られるような、夢窓が生涯に亘って全国各地で歌を詠んだ姿そのものが、夢窓説話のはじめのものと考えられるのである。
 夢窓の家集が編まれた原因を考えるとき、道元の家集「傘松道詠集」について船津洋子氏が「永平寺困窮の事態の中」で、永平寺教団が「本家の面目を、他に向かって自らの正統性、存在価値を知らしめたいとする思い」によって編纂されたと述べている(16)ように、夢窓の場合も、彼の威光・権威の衰退がその背景にあることは否めないであろう。夢窓家集のなかでも、内容は信用できるものと考えられている『正覚国師御詠』は、元禄十二年に版行された際に付された序文によって、耕雲明魏(花山院長親)によって編纂されたものとされ、それを信じれば一四〇〇年前後に編纂されたと推測されるから、夢窓の没後約五〇年が経ち、夢窓の直弟子もほとんどがこの世を去った時期と考えられるからである。
 ただし、道元と夢窓では、その家集の中身は全くといっていいほど違っている。船津氏によれば、道元の和歌が「大半が宗教教理や天然自然の季節の往来を素直にうたったもの」であり、「修辞、内容の多分に道歌的な、道歌を故造しているが如き稚拙な歌が多く含まれている」のに対して、夢窓は勅撰歌人であったことからもわかるように、名歌とまでは呼べないまでも、なかなか達者な歌を残している。道元にとって和歌が「遊び」に過ぎなかったのだとすれば、夢窓の和歌は研鑽・訓練されたものである。ここに夢窓の和歌に対する積極的な姿勢をみることができるであろう。夢窓の家集が彼の「伝記」としての役割を果たし、「歌僧」として説話化されるのも、夢窓本人にそれを許す素地があるからなのである。
 ではなぜ夢窓は和歌を訓練したのであろうか。考えうるその第一の理由として、彼が和歌を教化の手段として利用するため、ということがあげられる。夢窓が和歌を教化の手段として利用した形跡・態度は、『夢中問答集』に和歌が引用されていることや、先に確認したように、法談の場や書状において和歌を詠んだことによってうかがわれる。
 それではここで、夢窓が和歌に託した役割を『夢中問答集』の和歌の引用箇所に探ってみたい。『夢中問答集』においては、第6・第41・第91問同の三箇所に五つの和歌が引用されている。

 

 昔西行、江口といふ宿にて、宿を借りけるに、主の君許さず。西行一首の歌をすさめり。

  世の中をいとふまでこそかたからめ、仮の宿りを惜しむ君かな

家主これを聞きて、

  世をいとふ人とし聞けば仮の宿に、心とむなと思ばかりぞ

と詠じけり。つねざまに、情けと言へることは、皆妄執をとどむる因縁なり。されば、人の情けもなく、世の意にかなはぬことは、出離生死の助けとなるべし。

 
 夢窓は、西行と遊女のやりとりから、西行に対する「江口の無情がかえって出離生死のたすけとなるという、順縁逆縁の問題として、人間の心で推しはかり得ない理がそこに働いている」(17)ことをよみとり、なさけによって世の意にかなふことは「妄執をとどむる因縁」になるとして、なさけによって世の意にかなふことの無用を悟ったと述べている。
 夢窓が和歌によって疑問を解消できたという話は、夢窓の実体験であったかどうかはわからない。しかし『夢中問答集』においてはそのように語られているのである。
 次に第九一問答の和歌に、禅における和歌のもつ意義についてみてみたい。

 

聖徳太子は、南岳大師の再誕なり。南岳大師は、達磨の宗旨を相承し玉ひし、其因縁によりて、聖徳太子、仏法を御興行有りし時、大和の片岡山に、達磨大師顕現し在す。太子御歌をあそばして、贈らせおはします。其歌に云はく、

  しなてるや片岡山に飯にうゑてふせる旅人あはれおやなし

大師の御返歌に云はく、

  いかるがやとみの小河のたへばこそ我が大君の御名を忘れめ

幾程なくして、入滅の相を示し給ふ。

  

 この話は「片岡山説話」として多くの文献に見え、和歌の世界では、すでに『千載集』の「序」で最澄の詠歌と並べてとりあげられたことからもわかるように、釈教歌のはじめのものと考えられてきた。片岡山説話は禅において最も聖なる「神話」とされる(18)。夢窓は『夢中問答集』第九十一問答において、

我朝の仏法は、聖徳太子始めて流布しおはします。禅宗もしいたづらごとならば、何の故にかかやうに達磨大師を、崇敬しましまさむや。

と述べているように、この説話を禅宗の正統性を述べる際にも利用している。夢窓が『夢中問答集』に聖徳太子禅宗の始祖である達磨が歌を交わしたことは、禅における和歌の意義と価値を夢窓が認めていたことを示すものであろう。
 和歌によって仏の教えを理解できた夢窓の姿、そして聖徳太子が和歌によって達磨に呼びかけ、達磨がそれに和歌で答えたことは、日本人と仏(禅)の世界が、和歌を媒介に意志を通じ合うことができるという和歌の「力」を示しているように思われるのである(19)。
 それでは夢窓が和歌を教化に利用した動機はどこにあるのであろうか。おそらくは夢窓に仮名という文字媒体への執着があったと思われるのである。『夢中問答集』には在家の信者を読者とするために仮名を用いて刊行したことが記されていた。一般に流布するためには、仮名という媒体で書かれることが、必須条件であり、そしてそれを十分意識して『夢中問答集』は刊行されたのである。漢文で書かれたテクストは出家者を対象として書かれたと考えてよいであろう(もちろん対象を完全に分けることはできない。最大公約数としてである)。夢窓が『夢中問答集』をあえて仮名(日本語)によって刊行したことは、彼が在家信者の教化を図ったことを示すものである。そして夢窓の仮名への接近をもっとも表すものが、和歌であった。つまり在家信者に対して禅を説くために、和歌を詠んだと思われるのである。

 しかし夢窓が和歌を詠んだのは、本当にただ在家信者への教化だけが目的だったのであろうか。禅における和歌の問題を考えるとき、思いおこされるのは、無住道暁の存在であろう。無住が『沙石集』と『雑談集』において和歌を多く引用していること、またその手法は、夢窓における和歌の問題に対しても、ある示唆を与えてくれると思われる。よって次に無住における詠歌の意味を彼の著作に探り、それを手がかりに夢窓における詠歌の意味をもう一度考えなおしてみたい。
 無住は『雑談集』巻4「無常ノ言」において、

圭峯禅師ノ云ク、「以空寂、為自身、勿認コト色身。以霊知為自心、勿認妄念」。此則朝暮、止観修行用心也。私ニ詠之。
  ヨシモナク、地水火風ヲ、カリアツメ、我ト思フゾ、クルシカリケル
  ヤソヂマデ、ヨクアツメタル、地ト水ト、火ト風イツカ、ヌシニカエサン
  ヨシサラバ、モヌケテサラム、ヨシカラズ、ヤソヂニアマル、ウツセミノカラ
  アヤマリニ、影ヲ我ゾト、思ナシテ、マコトノ心、ワスレテシカナ
  アキラカニ、シヅカナルコソ、マコトニハ、我ガ心ナレ、ソノホカハカゲ

と「私」なりに圭峯宗密(780~841)の言わんとすること(思想)を五首の和歌に詠んでいる。無住が歌を詠んだ圭峯禅師の言は『沙石集』巻3-8(梵舜本)にも見える語である。


圭峯ノ禅師云ク、「以空寂為自身、勿認コト色身。以霊知為自心、勿認妄念。作有義事、是惺悟心、作無義事ヲ、是〔狂乱心〕。狂乱ハ由情念、臨終ニ被牽業、惺悟ハ不隨情、臨終ニ能々転業」ト云ヘリ。文ノ意は、妄心分別ハ、コレ狂乱也、真心ヲ忘ル。一念不生ハ、コレ惺悟也、本心ヲアラハス。情念ノ所作ハ、皆無義也、無常ノ果ヲウク。無念ノ修行ハコレ有義也、常住ノ理ニ叶。此故ニ臨終ニ妄業ニカヽミズシテ、自在ノ妙楽ヲヱ(エ)ムト思ハヽ、行住坐臥妄念ヲユルサズシテ、本心ヲ明ムベシ。


 無住は、圭峯禅師の言(思想)を彼なりに理解し、『沙石集』では「文ノ意」として彼なりに解説し、『雑談集』ではそれを「私」(無住)なりに和歌によって示していることがわかる。
 無住が圭峯の思想を和歌として詠み、『雑談集』に引用した理由とは、もちろん第一には読者のために、圭峯の思想をわかりやすく説明するためであるのだが、それと同時に、おそらくは無住自身のためという部分があるのではないだろうか。ここでもう一度、無住の和歌の詠み方を確認してみると、彼は圭峯禅師の言のある一節をとりだして歌に詠み込んでいるのではなく、圭峯禅師がその言にこめた「意」を汲みとり、それを新たに彼じしんのことばによって歌に詠んでいることがわかる。
 このような詠み方、つまり和歌としてある思想を詠ずる際、そのテーマとなっている思想を完全に理解・体得していなければ詠めないと考えられる。無住は歌に詠むという行為によって、その思想を理解・体得しようと努めているのではないだろうか。
 夢窓の家集に目を戻してみると、


   仏身無為にして諸趣に堕せずと云ふ心を(58)
わすれては世をすてがほにおもふかなのがれずとてもかずならぬ身を
   挙足下足皆道場と云ふ心を(72)
ふるさととさだむるかたのなきときはいづくにゆくも家ぢなりけり
   世尊不説之説、迦葉不聞之聞といへる心を(80)
さまざまにとけどもとかぬことの葉をきかずしてきく人ぞすくなき
   新成仏のこころを(81)
むすびしにとくるすがたはかはれどもこほりの外の水はあらめや
   無輪廻中妄見輪廻の心を(82)
山をこえ海をわたるとたどりつる夢路はねやのうちにありけり


などといった、「……の心を」という題で詠まれた歌がみられ、これらが無住と同様な詠み方をした歌と考えられるであろう。詞書でみられる「仏身無為にして諸趣に堕せず」・「挙足下足皆道場」・「世尊不説之説、迦葉不聞之聞」・「無輪廻中妄見輪廻」という語句は、直接的には和歌には詠み込まれていないことがわかる。ここで夢窓が詠んでいるのはその「心」、すなわち『沙石集』でいう「文の意」なのである。
 おそらくは、ある思想を和歌として詠ずることによって理解・体得しようする「修行」として和歌を詠むことが存在していたと思われるのである。そして「修行」としての詠歌を夢窓に教えた人物こそ、彼の宗教上の師でもある仏国禅師高峯顕日であったとは考えられないだろうか。
 高峯顕日の家集は、歌数は二九首と少ないが、うち三首が勅撰集に入集しており(『風雅集』二首・『新続古今集』一首)、当時の評価は高かったと考えられるであろう。「十牛図」を素材に詠んだ和歌が少なくとも二首みられ、その他『宗鏡録』を出典ともされる和歌が一首ある(20)。禅の思想を詠んだ和歌としては、はやい時期のものといえるだろう。
 仏国の和歌にも「……の心を」という題を持つものが見られる。


   本来成仏の心を(8)
雲はれて後のひかりとおもふなよもとより空に在明の月
   輪廻と云心を(19)
あかつきのうきわかれにもこりすしてあふはうれしきよひの手枕
   公案提撕の心を(24)
たてぬまとひかぬ弓にてはなつ矢はあたらすなからはつれさりけり


 「本来成仏」は『円覚経』の「始知衆生、本来成仏、生死涅槃、猶如昨夢」がその典拠と思われ、同じ題を詠んだものとしては、


さめやらぬうき世の外のさとりぞと見しは昨日の夢にぞ有りける(『新後撰集』687 洞院公守
今ぞしるなにはものりのことわりにまよふほどこそ身をつくしけれ(『続門葉集』909 法印道恵)
月の行くうき世の外をたづぬるは者を思ひし心なりけり(『拾遺風体集』504 忠遠上人)

などが見られる。断定的なことはいえないが、禅の影響によって詠まれた題と考えられる。注目されるのは『拾遺風体集』にみられることで、『拾遺風体集』は冷泉為相の編纂とされ、高峯と為相は大変交流が深かったことが知られる(21)。
 夢窓とほぼ同時代人である二条派の有力歌人・惟宗光吉(1274~1352)の家集には「教外別伝不立文字の心を」という、禅の宗旨を題とする、
  をしへおくのりのほかなる道ならば心とむなもじのせきもり(293)
があり、『拾遺風体集』にも「教外別伝不立文字の心を」を詠んだ道世法師の
  をしへおくのりのほかなる道なればふみしる人のさぞまよふらん
がある。
 禅の思想を詠んだ和歌は少なからず見られるが、作例がはやいものとしては、『続古今集』(異本)における、中国禅宗の実質的な祖である馬祖道一の代表的思想を表す語である「平常心是道」を詠んだ、九条教家(1194~、道元の弟子・外護者とされる)の作、
  まことしく仏の道を尋ぬればただよのつねの心なりけり(1921)
があげられるだろう(22)。また同じく『続古今集』には、『沙石集』巻3ー8にその名が見える、初期臨済禅の名僧・天佑思順の和歌が二首みられることも注目される。うち一首は「教是仏語禅是仏心還有浅深否と問ひて侍りける人の返事に」という題の
  しのびつついくたびかけるたまづさもおもふほどにはいはれざりけり(793)
なども早い作例としてあげられるだろう。天佑思順は無住や高峯、夢窓に先だって、和歌を詠んだ禅僧として特筆すべき存在であり、『続拾遺集』にも一首が、計三首が勅撰集に入集している(釈教歌ではないが、栄西も『続古今集』に一首入集している)。
 禅が日本に伝えられて以来、禅はいわゆる上流知識階級を中心にひろまるが、禅のきわめて中国的であり、抽象的・難解な思想を伝え、理解・体得する際に、和歌が果たした役割はきわめて大きかったと推測される。禅の思想を詠んだ和歌が、禅僧以外にも少なからず見られるということは、歌を詠むということがその思想を体得するための一首の「修行」(といえるほど大げさな自覚的な行為であったかはわからないが、あくまで一つの言語遊戯をとおしての)として行われていたことを示しているのではないだろうか。古田紹欽氏は、室町時代になって在家者で参禅するものがふえると、在家者にもわかるように禅問答も漢文体から平易な言葉をもってされるようになり、狂歌をもって問答のようなものもなされたことを指摘し、和歌の問答は記録されることによって仮名法語となり、江戸時代における禅の庶民化の原動力になったと述べている(24)。しかし初期の禅僧たちの和歌が残されていることから推測すると、おそらくは禅が日本に伝わった非常にはやい段階から、禅の「修行」に和歌が用いられていたことが推定されるのである。

 これまで「禅林の文学(五山文学)」といえば、漢文の詩ばかりが注目されてきたが、禅林は和歌や説話を生産し伝え続けてきた、和の文学の豊かな水脈をもっていたことがわかる。そして思想的にも五山最大の存在であり、和漢それぞれの文学にも長じていた夢窓疎石こそが、詩禅一致・和漢兼帯を理想の文学とする(25)、「禅林の文学(五山文学)」を象徴・代表していると考えられるであろう。

 

(1)木下資一『研究資料日本古典文学 第八巻 随筆文学』「夢中問答」明治書院(1983)。

(2)徳田和夫「中世女人出家譚『千代野物語』について」『国語国文論集(学習院女子短期大学国語国文学会)』(1994・3)→「伝承文学と文献」『講座日本の伝承文学 1 伝承文学とは何か』三弥井書店(1994)は「夢窓国師は、一休宗純に次いで、宗派内だけではなく、多方面にわたって説話、伝承を多く伝える人物である」として、『三国伝記』巻4第9話「夢窓国師事」、『碧山日録』長禄三年二月二四日条、『塵荊鈔』巻11、『雲玉和歌抄』雑部、『法華経鷲林拾葉鈔』巻23普門品第25、『法華経直談鈔』巻7本「提婆品」12、『直談因縁集』巻4〈五百品〉第5、『多聞院日記』永禄九年正月二六日条、『月庵酔醒記』、『法華懺法抄』巻下、『醒睡笑』、『古今夷曲集』、『千代嚢媛七変化物語』をあげる。

 岡雅彦「笑話 一休ばなしの成立」『岩波講座 日本文学と仏教 第9巻古典文学と仏教』岩波書店(1995)は、夢窓にまつわる伝承が一休の説話として取り込まれたことを指摘し、徳田論文が紹介したもの以外に、『新撰狂歌集』、『大徳寺夜話』を紹介する。

 その他、管見に入った夢窓の説話・伝承として、『月刈藻集』、『釈迦如来栴檀瑞像記』、『為愚痴物語』巻2第11「双六の上手利口の事」、『百八町記』巻5などがある。

(3)阪口光太郎「『和語連珠集』に引かれた直談系法華経注釈書 近世における直談系法華経註釈書享受の一例について」『東洋大学大学院紀要』30(1993・2)、堤邦彦『近世仏教説話の研究 唱導と文芸』翰林書房(1996)参照。

(4)『夢中問答集』において夢窓自身によって語られる自画像も旅の僧の姿である。第6問答では「予三十年の前に此の疑の起れる事ありき。常州臼庭といふ所に独住せし時、五月の始め庵外に遊行す。」と「常州臼庭」(現在の茨城県北茨城市)に滞在していたときのことを、第76問答においては「予昔遊山の次でに、同伴の僧七八人つれて、富士山の辺り西の湖といふ所に到れり」と述べる。両話とも『夢中問答集』中、きわめて印象鮮やかな部分である。

(5)『江戸時代 女性生活絵図大事典 2』大空社(1993)。

(6)(1)と同じ。

(7)講談社(1968)。

(8)北田紫水『俳僧蝶夢』大蔵出版(1948)・山本平一郎「俳僧蝶夢の宇良富士 紀行 ー夢窓国師の山水漂流ー」『禅研究所紀要』1(1971・5)が詳しい。またこの旅に同行した弟子の木姿も「富士美行脚」をのこしており、旅の全貌はこちらのほうが詳しい。

(9)元禄4年(1691)四月一八日、芭蕉は嵯峨に赴き、はじめての夜を過ごし、その翌一九日に嵯峨における最初の外出で、彼はまず最初に夢窓の塔所(墓所)である臨川寺に詣でている。

(10)今泉淑夫『桃源瑞仙年譜』「文明七年一〇月一二日条」春秋社(1993)。

十月十二日、午後、曹源寺志高長老ヨリ紅柿ヲ恵セラル、和歌一首ヲ添ヘタリ、コレニ因ミテ夢窓国師ノ和歌ニ優レシコト、マタ亡父年登居士ノ和歌ニ長ゼシコトヲ想起ス、

(11)本書Ⅱ部4章参照。

(12)大取一馬編『浄土真宗玉林和歌集』臨川書店(2002)。

(13)飯塚大展「龍谷大学図書館蔵『大徳寺夜話』をめぐって(1)」『駒澤大学禅研究所年報』10(1993・3)。

〈荻(ママ)ト云傾城、夢窓ニ一首和歌ヲ寄云、「清トモ一夜ハ落ヨ滝ノ水濁テ後ハ清物カハ」夢窓返歌云、「イトトタニ危スメル露ノ身ヲ落ヨトサソウ荻ノ上風」開山聞之云、此興ナ返歌也。徹翁云、和尚作麼生。山云、荻ヲ一蹈ニ倒セン。夢窓ヲナブツテ云タ事チヤ程ニ也。〉

(14)『静岡県榛原郡誌』名著出版(1971復刻)は、思いがかなわなかった野守がついには大蛇となり夢窓によって調伏されたという道成寺系説話や、野守池近くの夢窓を開山とする三光寺(現・曹洞宗)には夢窓の姿が織り込まれていた中将姫作の織物があるという中将姫説話と結びついた異伝を伝える。寺伝によれば、織物は寺宝として最近まで伝えられていたが、今は失われてしまった。

(15)『金沢文庫資料全書 仏典1 禅籍篇』神奈川県立金沢文庫(1970)。
(16)「『傘松道詠集』の名称・成立・性格」『大妻国文』5(1974・3)。

(17)植田重雄「夢窓国師の文芸」『早稲田商学』133(1958)。本書Ⅱ部2章も参照。

(18)本書Ⅰ部1章、Ⅱ部4章参照。

(19)『聖徳太子の本地』の「太子が悟りの旨を達磨に尋ねたのに対し、(略)『日本に和歌の道ありて……此歌をたよりにして……悟り給ふべし』と十首の和歌を太子に示す」(大島由紀夫執筆「聖徳太子の本地」『お伽草子事典』東京堂出版(2002))という内容は、禅における和歌を媒介にした太子と達磨の出会いの意義を示している。

(20)西山美香「『仏国禅師家集標注』翻刻と紹介」『大倉山論集』46(2000・9)参照。

(21)福田秀一『中世和歌史の研究』角川書店(1972)が詳しい。関東歌壇と高峯・夢窓の関連も重要な課題であり、別稿を期したい。

(22)禅の和歌については、間中富士子「中世に於ける禅及び禅僧の和歌」『鶴見女子短期大学紀要』2(1962・3)、古田紹欽『禅僧の歌』春秋社(1974)参照。

(23)高橋秀栄「草河の真観房思順について」『松ヶ岡文庫研究年報』18(2004・3)が詳しい。同論文は金沢文庫蔵『雑々要文』に収められた思順の和歌三首を紹介する。

  コトトワム、カカミトカケト、ヒカリトハ、ミツカフタツカ、イカカワカタム

  山カケニ、ムスヒシコウリ、トケソメテ、イツレノサトモ、ハルメキニケリ

  トウ人ニ、マツコトトウム、ヲノカミソ、マナコハイアカカ、マナコヲハシル

 高橋論文は「仏の教えを和歌に詠むには優れた見識、学識が「なければならない。それはいうなれば、経典の翻訳行にも匹敵する難行である」と和歌の意義を端的に指摘する。

 本章でも述べた夢窓が松島で出会った頼賢は『夢窓国師年譜』に「草河真観上人門弟也」とあることから、「草河真観上人」すなわち思順の門弟であり、夢窓が天佑思順を知っていたことがわかる。夢窓と頼賢も歌を交わしたかもしれない。

 天佑思順は後嵯峨法皇に『摩訶止観』を講義した(金沢文庫『法華文句雑見聞』巻2 高橋論文参照)こともあったが、夢窓の師の仏国禅師高峯顕日は後嵯峨の皇子といわれる。思順は夢窓がもっとも敬愛した中国の禅僧・大慧宗杲の孫弟子として法系に連なり、夢窓が最初に参禅を志した心地覚心も思順から大きな影響を受けている。夢窓も思順に特別な思いを持っていた可能性もあるだろう。また夢窓家集の彰考館小山田文庫本には、思順の歌「おとづるるおとになかなかやまざとのさびしさまさる夕しぐれか(『続古今集』794)が夢窓に仮託されて収められている。

(24)『日本人のこころ 古典にみる禅の思想』現代教養文庫(1966)。

(25)永島福太郎「茶道史序説」『茶道文化論集 上』淡交社(1982)参照。

 

 

 

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魚籃観音(『望月佛教大辞典』より)

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魚籃観音

魚籃観音 ギョラン クヮンノン

三十三観音の一。手に魚籃を持するが故に此の称あり。又水上、大魚に乗じたる形像あり。之を法華経普門品に「或は悪羅刹、毒龍、諸鬼等に遇すはんに、彼の観音の力を念ぜば、時に悉く敢て害せず」と云ふに配するも、是れ中世中国に起れる信仰にして、経軌経文に元と其の説なし。宋学士全集補遺第三に載する魚籃観音像賛に依るに「予、観音感応伝を按ずるに、唐元和十二年、陝右金沙灘上に美齢の女子あり、籃を挈げて魚を鬻ぐ。人、競うて之を室にせんと欲す。女曰はく、妾、能く経を授けんに、一夕にして能く普門品を誦せば、事へんと。黎明に能する者二十。女、辞して曰はく、一身豈に衆夫に配するに堪へんやと。請うて金剛経に易へ、前に期する如くす。能する者、復た其の半に居る。女又辞し、請うて法華経に易へ、期するに三日を以てす。唯だ馬氏の子のみ能くす。女、礼を具し、婚を成さしむ。門に入るに、女、即ち死す。死すれば即ち麋爛し立ろに尽く。遂に之を瘞む。他日、僧あり馬氏の子と同く蔵を啓き之を観るに、唯だ黄金鎖子骨のみ存す。僧曰く、此は観音示現して以て汝を化する耳と。言ひ訖て空を飛んで去る。是より陝西、経を誦する者多し。烏傷の劉某、括人呉福に命じ、金碧を用て画きて一幀を成し、月旦十五日、展べて謁す。予に其の事を序せんと請ふ。序し以て之が賛を繋げて曰はく、惟我大士、慈憫衆生、耽着五欲、不求解脱、乃化女子、端厳妹麗、因其所慕、導入善門、一刹那間、遽爾変壊、昔如紅蓮、芳艶襲人、今則臭腐、蟲蛆流蝕、世間諸色、本属空仮、衆生愚癡、謂仮為真、類蛾赴灯、飛逐弗已、不至隕命、何有止息、当是実相、円同太虚、無媸無妍、誰能破壊、大士之霊、如月在天、不分浄穢、普皆照了、凡帰依者、得大饒益、願即同帰。薩婆若海」と云へるもの、蓋し其の起源ならん。仏祖統紀第41元和4年の条にも、同一の記事あり。唯だ籃を挈げて魚を鬻ぐと言はざるを異とするのみ。仏像画彙第2に出だせる三十三観音中、魚籃観音の外に、別に馬郎婦観音あり。馬郎婦とは、馬郎の婦の意なれば前掲の因縁は、是れ正に馬郎婦観音にして、亦同時に魚籃観音の故事なりと云はざるを得ず。三田魚籃寺縁起にも、粗々之と同じき記事を録すれば、魚籃は、馬郎婦の持せるものにして、此の二者、恐くは同一ならん。江戸砂子第5には「魚籃観音は本説を見ず。疑ふらくは、霊照女の像の籃を持てるを誤りて、魚籃観音と号せるか。馬郎婦と魚籃は一ならん」と云へり。此の中、霊照女と云ふは、仏祖統紀第41に「居士龐蘊、元和中、襄漢に北遊し、郭西の小舎に居る。一女霊照、常に竹漉籬を製し、売りて以て朝夕に供す。将に逝かんとし、霊照をして出でし日の早晚を視せしむ。午に及んで以て報じ、女、遽に曰はく、日已に中す、而も蝕ありと。居士、戸を出でて之を視る。女即ち父の座に登り、合掌して坐亡す」と云ひ、仏祖歴代通載第20、居士伝第17等にも、亦其の記事あり。之に依るに、霊照は、龐居士の女にして、馬郎婦と別人なり。又宋学士全集補遺第3にも、魚籃観音霊照女二賛と題して、惟観世音、誓救群迷、現不実相、変滅斯須、破凡夫執、返乎物初、一真所摂、万境自如(已上魚籃観音)惟霊昭女、入不思議、以般若種、得方便智、聚首而談、無非実際、至今霊光、照乎天地(已上霊照女)の偈をあげたるを以て見れば其の同人に非ざること明かなりと雖も、古来、此の二女(魚籃観音と霊照女)が、同じく唐元和年中に生存して、共に奇行を以て伝へられたるより、遂に之を混同し、霊照女の竹漉籬を持せるを魚籃観音と訛伝し、之を馬郎婦観音と別視するに至りしものならん歟。其の同人に非ざること明かなりと雖も、古来、此の二女(魚籃観音と霊照女)が、同じく唐元和年中に生存して、共に奇行を以て伝へられたるより、遂に之を混同し、霊照女の竹漉籬を持せるを魚籃観音と訛伝し、之を馬郎婦観音と別視するに至りしものならん歟。或は、稗史西遊記に、玄奘三蔵が西遊の途次、通天河を過ぐるに、水中、妖魔の捉ふる所となりて、厄難を免るること能はず。悟空、因って補陀山に馳往し、観音を請ずるに、菩薩、乃ち悟空と共に其の処に到りて、籃を水中に投ずるに、妖魔、本身に復して、籃中に盛らる。之を見るに、一匹の溌溂たる金魚なりと云ふを付会して、其の権輿となすの説あるも、恐らくは信ずるに足らざるべし。又籃中の魚は、龍を表したるものとも云ふ。故に祇陀開山大智禅師の偈頌に「翠黛画眉織月淡、春風満面小桃紅。見人放下籃兒去、三十六鱗皆化龍」とあり。東京芝三田魚籃寺に安置する観音像は、承応元年、同寺開山称譽萬冏、肥前長崎に遊錫し、中国商売二官?の女より得たる所。二官?は、元と中国澄?河寺住僧の弟にして、屡々我が国に来遊せしが、渡海の船中、常に此の像を守護の本尊となしたりと伝ふ。一説には、像は、始め法誉なる者、彼の地にて二官の女より之を得、元和三年、豊前中津円応寺に魚籃院を建てて安置し、後、寛永七年、三田に小堂を構へて之を遷座し、承応元年に至りて、称誉、今の魚籃寺を建立せりと云へり。又江戸名所図会第三に出づ。

※本研究会はtwitterに「もちぶつbot」として、『望月佛教大辞典』で個人的に気になる項目を不定期に投稿しています(著作権はすでに消滅)。投稿した際はこちらにもアップします。

蓮臥観音(『望月佛教大辞典』より)

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蓮臥観音

 

蓮臥観音 三十三観音の一。蓮上に坐臥するが故に此の称あり。法華経第七観世音菩薩普門品に「小王身を以て得度すべきものは、即ち小王身を現じて而も為に説法す」と云ふに配せらる。是れ王は尊貴の身なるを以て、蓮上に坐臥すとなせるものならん。像は蓮華葉上に坐して合掌せり。又仏像図彙第2等に出づ。