禅研究会

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「足利義満のうちなる中国皇帝 舎利信仰を手がかりに」『アジア仏教美術論集 東アジアⅦ アジアの中の日本』(中央公論美術出版)の補足とおわび

 西山美香足利義満のうちなる中国皇帝 舎利信仰を手がかりに」『アジア仏教美術論集 東アジアⅦ アジアの中の日本』(中央公論美術出版)の第二章「金閣のうちなる北魏献文帝の鹿苑石窟寺」におきまして、

北山殿に禅室を設け、禅林諸老を集めて禅を談じた義満は、北魏の献文帝の鹿苑石窟寺を意識し、献文帝に自らをなぞらえていたと考えられる。そして「鹿苑」が鎌倉幕府執権(北条時宗による円覚寺)や室町幕府将軍(足利義満による相国寺鹿苑院)において強く意識されていたのも、中国皇帝が寺院創建にあたって、釈尊鹿野苑を意識していた伝統をふまえたものであろう。

ということを論じました。

 校正終了後に気づいた先行研究として、杉原たく哉『アジア図像探検』(集広舎)の「金閣幻想と五台山」があります。拙稿が見落としていた指摘が複数あり、なかでも北魏献文帝が平城の永寧寺に七重塔を建てたことが、相国寺と北山殿の七重大塔のモデルとなっているのではないか、というのは重要な指摘と考えます。

献文帝は中国初の上皇であり、日本の上皇太上天皇)や院政の起源となっています。十二歳の義持に将軍職を譲り北山殿に隠居した上皇気取りの足利義満が、自己のモデルとしたのが、この献文帝です。相国寺七重塔が消失するとすぐに北山殿に七重塔を再建したのも、献文帝の永寧寺七重塔の模倣を維持したかったからです。(116ページ)

 他にも大変興味深い指摘がいくつもありますので、杉原たく哉氏「金閣幻想と五台山」を拙稿とあわせてお読みいただけましたら、大変ありがたく存じます。杉原氏は2016年に亡くなられており、先行研究としてあげられなかったことにつきまして、直接お詫びを申し上げられませんことがとても残念です。まことに申し訳ございませんでした。なお、同書巻末の「杉原たく哉 年譜」を拝見したところ、杉原氏が2000年に私の母校に非常勤講師としていらしていたことを知りました。当時私は自室にこもって博士論文をひたすら書いていた時期で、ほとんど大学に行っておりませんでした。ぜひ授業を聴講させていただきたかった、とこれも非常に残念に感じております。

 

【追記】拙稿では文献に書かれていないこと(典拠がないこと)は主張しておりません(できません)。史資料に○○と書いてある→○○だ(であろう)、ということ(のみ)を記す拙稿では、カバーできない・指摘できないことを、杉原氏は広い視野・知識にもとづいて述べられており、それが非常に魅力的・刺激的、と思っております。ぜひ両方をお読みくだされば幸甚に存じます。

2023年を振り返って

 2023年は大変お世話になりました。

 2023年は1冊の史料集、1本の論文を出すことができました。数は少ないですが、両方とも手前味噌ながら時間と手間をかけた研究成果であり、なんとか世に送り出すことができたことに感慨無量の大晦日です。

 研究会としては、なんといっても『大唐名藍記・和漢禅刹次第〔中国部〕』を4月に刊行できました。この本を刊行するまでは死ねない、と本気で思って編集作業をしておりましたので、公開できたときにはとにかくほっとしました。ただ、正直なところまったく売れていません……涙 中国五山制度は日本にも大きな影響を与えましたが、その詳細を示す資料は中国においては現在までに見つかっておらず、本書所載の日本で撰述された「禅刹記」によってのみ知られます。南宋・元・明の仏教史についてのほんとうに貴重な史料集なのですが…… 図書館にリクエストしていただけますと大変幸いです。

 個人としては、「足利義満のうちなる中国皇帝 舎利信仰を手がかりに」を『アジア仏教美術論集 東アジアⅦ アジアの中の日本』(中央公論美術出版)に掲載していただきました。入稿が遅れ、時間切れとなってしまいましたが、北魏献文帝については、会田大輔氏『南北朝時代』(中公新書、2021)が、北魏の献文帝が退位して「太上皇帝」を名乗ったことが、持統天皇の「太上天皇」称号の参考(先例)にされたこと、世俗からの超越を図って譲位した可能性があること、皇帝が譲位後も実権を握る体制の初出が献文帝であると述べたことなどは、註に記すべきだったと反省しております(今後単著にまとめる際に補訂したいと思います)。本書の冒頭の宮治昭先生の総論「アジアの中の日本 インド・ガンダーラからの視座」と拙論をあわせてお読みいただけますと、拙稿で論じた日本五山禅僧がインド・中国をどのように認識していたかがより鮮明に見えてくるかと思います。私の「うちなる」という方法・問題意識は、大学時代に読んだ目崎徳衛『芭蕉のうちなる西行』の影響によるものです。今日まで自身に問いかけ考え続けている、室町時代の国家宗教的な役割を、禅宗の一派の臨済宗夢窓派が果たした諸相、そしてそれが可能であった歴史的・思想的な背景・基盤という研究テーマのうち、ある部分への私なりの回答として執筆いたしました。文字通りの拙い回答(論考)ですが、『アジア仏教美術論集』の最終巻「アジアの中の日本」に掲載していただいたことは本当にありがたく、感謝の気持ちでいっぱいです。

 研究生活の旅路の終わりを見据えて、来年もマイペースで活動してまいります。引き続きましてのご指導どうぞよろしくお願いいたします。

 みなさまよいお年をお迎えください。                西山美香

 

『大唐名藍記・和漢禅刹次第〔中国部〕』(歴史資料叢刊1)

禅研究会歴史資料叢刊1

西山美香・王珂・宋力編『大唐名藍記・和漢禅刹次第〔中国部〕』

(2023年4月8日刊行、15000円+税)

ISBN:9784910314075 C3015 ¥15000E 判型:B5 404ページ

Chinese famous Zen Buddhism temples

ーThe sequence of Chinese Zen(Chan)  sect temples since the Southern Song periodー

NISHIYAMA Mika WANG Ke SONG Li

中国の五山・十刹・甲刹の所在地・開山・境致(境内のめぼしい建築・山水・木石)などを列挙した「禅刹記」中国部分について、貴重な15書の翻刻を集成した。中国五山制度は日本にも大きな影響を与えたが、その詳細を示す資料は中国においては現在までに見つかっておらず、本書所載の日本で撰述された「禅刹記」からうかがい知ることができるのみとなっている。本書は、禅宗のみならず、広く南宋・元・明時代の中国仏教史研究に裨益するところが大きい。

 

目 次                                       

第一章 解説(西山美香)  
第二章 資料本文編〔中国部分のみ〕
 【天竺・中国五山一覧】   
 無着道忠撰「大唐名藍記」『正法山誌』  
 東京大学史料編纂所蔵「大唐名藍」『倭漢禅刹次第』(後欠本)  
 鹿王院蔵「大唐名藍之図」『大唐名藍』   
 国立公文書館内閣文庫蔵「大唐名藍之図」『大唐名藍』  
 「大唐名藍之次第」『群籍一覧』(版本、宝永七年[1710]版) 
 大谷大学図書館蔵「大宋諸寺位次」『禅林大宋諸寺位次』   
 続群書類従所収「大唐禅刹位次」『和漢禅刹次第』  
 東京大学史料編纂所蔵「大唐禅刹位次」『倭漢禅刹』 
 花園大学情報センター今津文庫蔵「大唐禅刹位次」『倭漢禅刹次第』 
 国立歴史民俗博物館蔵田中穣氏旧蔵『震旦扶桑禅刹次第』  
 東福寺霊雲院蔵『倭漢禅刹記』  
 松ヶ岡文庫蔵『震旦日域五山十刹次第』 
 松ヶ岡文庫蔵『名刹記』  
 京都大学附属図書館蔵経書院文庫蔵『名藍志』 
 駒澤大学図書館蔵『唐五山十刹』  
 国立公文書館内閣文庫蔵『三国名藍図』 

第三章 参考資料編(辞典・図版)

唐名藍記

購入について

①研究会にご連絡ください。zenkenkyukai☆gmail.com(☆→@) 15,000円(送料込)

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【正誤表】

P.87・213・243 誤)用童 → 正)用章

解説の誤字訂正版を作成しました。(内容に変更はありません。誤字修正のみ)

ご希望の方は、zenkenkyukai☆gmail.com(☆→@)へご連絡ください。お送りいたします。

 

 

 

 

       

 



『平氏政権と源平争乱』吉川弘文館(2022)第10章(横内裕人執筆)より

P.244

入宋僧の再開

 清盛や後白河院の進行は、聖や持経者の活動を賦活化したと考えられる。その点で注目したいのが、俊乗坊重源である。(略)重源は、(略)法華持経者である。(略)仁安二年(1167)に、約八十年ぶりに入宋し、明州の地を踏んだ。五臺山巡礼のためだったが、五臺山は金に占領されており、所願は果たせなかった。重源が五臺山を目指した目的は明らかではないが、北宋時代の入宋僧のように貴顕ー源師行後白河院ーの代参の可能性も想定できよう。

 さて、行く先を失った重源に、宋人が明州に近い阿育王山への巡礼を持ち掛けた。重源は、翌年入宋した栄西と合流し阿育王山に向かったが、これがその後の日本仏教の流れを大きくかえることになった。重源と栄西は、阿育王山の住持であった従廓から舎利殿再建事業への協力を持ちかけられた。当時、従廓は阿育王塔の信仰を喧伝し、南宋皇帝孝宗や明州知事の庇護を受け伽藍の整備を進めており、諸方に結縁を勧めていた。重源・栄西の二人は、天台山巡礼を遂げたのち、再び阿育王山を経由して帰国した。従廓の勧進に呼応した二人が向かった先が、後白河院であった。南宋側の史料には、当時の「日本国王」が良材を送って舎利殿建立を助けたとある。重源は、その後二度入宋して、太宰府・博多周辺にいた栄西と協力し、後白河院知行国であった周防国から大材の輸出に携わり、阿育王山舎利殿を完成させた。この次期は、後白河院と清盛の政治的提携期に当たっている。平氏後白河院が提携して進めた日宋貿易を背景に日宋間の仏教交流が進展したのだ*1

 のちに重源は、平氏に焼かれた東大寺大勧進後白河院から抜擢される。そして重源死後、栄西大勧進を引き継ぐ。後白河院が、重源を通じて東大寺再建を遂行できたのは、阿育王山舎利殿での勧進の経験や重源が南宋の商人・工人らと培ったコネクションがあったからである。(中略)

P.245

 後白河院は、重源・栄西のほかに、園城寺僧覚阿を入宋させて霊隠寺住持仏海恵遠に禅宗を学ばせて禅の導入を計画した。また覚阿の師で、後白河院の戒師でもあった園城寺覚忠が恵遠に使者を送ったり、後白河院が恵遠を日本に招き、延暦寺管領させようとした*2。禅僧招請は成功しなかったが、後白河院は顕密仏教の枠を大きく踏み出し、南宋仏教との接点を模索した。この次期、南宋側の外交圧力が低下し、仏教交流と切り離されていたことも、南宋仏教の受容につながったとの見解もある*3。(後略)

 

*1:横内裕人「重源における宋文化 日本仏教再生の試み」『日本と《宋元》の邂逅 アジア遊学122』(2009)、渡邊誠「後白河法皇の阿育王山舎利殿建立と重源・栄西 」『日本史研究』579(2010)

*2:横内裕人『日本中世の仏教と東アジア』塙書房(2008)

*3:手島崇裕「五代・宋時代の仏教と日本」『日本宗教史4』吉川弘文館(2020

横内裕人『日本中世の仏教と東アジア』塙書房(2008)より

P.415

 北宋仏教導入という点で画期となるのが、入宋交流史上注目される奝然であった。完成間もない宋版一切経の輸入やその後の安置の状況、また清涼寺蔵の優填王第三伝栴檀釈迦像と納入品の受容が、モノの直接的輸入という点で議論されている。

 さらに奝然は、愛宕山を中国の五台山に擬す聖地化を図り、大乗戒壇を建立し、「三学宗」なる宗派を建立し

P.416

ようとしたという。三宗学とは、戒・定・慧からなる三宗を意味し、当時では禅宗を含む諸宗兼学の北宋仏教そのものを指す。また(略)達磨宗つまり禅宗を伝えたともいう。奝然は、北宋の仏教制度・信仰をそのまま導入しようとしたといえよう。しかし奝然の計画は(略)悉く天台宗の反対にあって潰されている。

 

 

P.429

 以上によれば、覚阿は南宋の都臨安(杭州)にある霊隠寺住持仏海禅師恵遠*1に師事し禅を学ぶが、(略)日本に禅宗を導入しようとする明確な意思を持っていた。しかも仏教を保護する後白河院を中国に宣伝し、その後押しを強調している。

 また覚阿帰国の翌年、安元元年(1175)には、覚阿の師にあたる園城寺長吏覚忠が、杭州の恵遠に使者を送り詩書・贈物を届けている。さらに寿永元年(1182)、後白河院は恵遠を「叡山寺」住持に迎えようと要請したが、すでに入寂して果たせなかったという。この覚忠は、後白河院の出家戒師であり、この禅宗導入が園城寺長吏・後白河院という王権中枢の意図によるものであることは明白である。

従来、南宋禅の導入は、能忍や、能忍と同一視された栄西や少数派の異端的動きとみられていた*2。しかし、栄西入宋の経緯*3や、後白河院・覚阿と恵遠らの交流を考えると、これはまさに後白河院の政策に基づき、禅宗導入が計画されたとみる他はない。十世紀、奝然の時期以来、排斥されてきた禅宗を導入するという選択をしたのは、王権および王権を支える仏教勢力の一部でもあったのである。

P.430

 (略)南宋禅に傾倒したのは一介の異端僧ではなく「顕密の学僧」だったのである*4。実在の栄西・覚阿も、このように認識されたのであろう(略)平氏・後白河政権による南宋仏教の直接導入は、王権と禅宗の結合でもある。

*1:※瞎堂慧遠

*2:原田正俊「達磨宗と摂津国三宝寺」『日本中世の禅宗と社会』吉川弘文館、1988

*3:川添昭二栄西と今津・誓願寺」『日本歴史』332、1976、『栄西禅師と臨済宗 日本仏教宗史論集』吉川弘文館、1985

*4:原田正俊東福寺の成立と「時代の妖怪」」『日本中世の禅宗と社会』吉川弘文館、1988

新年のご挨拶

あけましておめでとうございます

新年を迎え皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます

  2023年元旦 禅研究会

 

昨年も禅研究会として本を出すことができました。

みなさまのおかげと心より感謝しております。

ありがとうごございました!!

新型コロナウイルス感染症の影響で

『和漢禅刹次第 中国部(仮)』の刊行が延期となっています。涙・涙・涙

なんとか2月19日に刊行をしようと考えております。

あいかわらず自分の努力ではどうにもならないことが多いのですが

自分でできることは粛々とがんばりたいと思います。

 

コロナで変わったことでありがたかったのは、

学会などのイベントがオンラインで参加できるようになったことです。

介護に時間を取られている身としては今年もぜひ続いてほしいです。

 

個人として昨年でうれしかったことは

禅学研究会学術大会で発表させていただいたことです。

また受講生にめぐまれて、とても充実した授業が出来た(と思う)ことです。

残念だったことは、9月にコロナにかかってしまったことです涙

 

「研究会」としての活動もはじめたいと考えています。

そのときどきにやりたいこと・できることをひとつひとつ

こつこつ実現していきたいと思います。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。 

         禅研究会 西山美香