禅研究会

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『平氏政権と源平争乱』吉川弘文館(2022)第10章(横内裕人執筆)より

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入宋僧の再開

 清盛や後白河院の進行は、聖や持経者の活動を賦活化したと考えられる。その点で注目したいのが、俊乗坊重源である。(略)重源は、(略)法華持経者である。(略)仁安二年(1167)に、約八十年ぶりに入宋し、明州の地を踏んだ。五臺山巡礼のためだったが、五臺山は金に占領されており、所願は果たせなかった。重源が五臺山を目指した目的は明らかではないが、北宋時代の入宋僧のように貴顕ー源師行後白河院ーの代参の可能性も想定できよう。

 さて、行く先を失った重源に、宋人が明州に近い阿育王山への巡礼を持ち掛けた。重源は、翌年入宋した栄西と合流し阿育王山に向かったが、これがその後の日本仏教の流れを大きくかえることになった。重源と栄西は、阿育王山の住持であった従廓から舎利殿再建事業への協力を持ちかけられた。当時、従廓は阿育王塔の信仰を喧伝し、南宋皇帝孝宗や明州知事の庇護を受け伽藍の整備を進めており、諸方に結縁を勧めていた。重源・栄西の二人は、天台山巡礼を遂げたのち、再び阿育王山を経由して帰国した。従廓の勧進に呼応した二人が向かった先が、後白河院であった。南宋側の史料には、当時の「日本国王」が良材を送って舎利殿建立を助けたとある。重源は、その後二度入宋して、太宰府・博多周辺にいた栄西と協力し、後白河院知行国であった周防国から大材の輸出に携わり、阿育王山舎利殿を完成させた。この次期は、後白河院と清盛の政治的提携期に当たっている。平氏後白河院が提携して進めた日宋貿易を背景に日宋間の仏教交流が進展したのだ*1

 のちに重源は、平氏に焼かれた東大寺大勧進後白河院から抜擢される。そして重源死後、栄西大勧進を引き継ぐ。後白河院が、重源を通じて東大寺再建を遂行できたのは、阿育王山舎利殿での勧進の経験や重源が南宋の商人・工人らと培ったコネクションがあったからである。(中略)

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 後白河院は、重源・栄西のほかに、園城寺僧覚阿を入宋させて霊隠寺住持仏海恵遠に禅宗を学ばせて禅の導入を計画した。また覚阿の師で、後白河院の戒師でもあった園城寺覚忠が恵遠に使者を送ったり、後白河院が恵遠を日本に招き、延暦寺管領させようとした*2。禅僧招請は成功しなかったが、後白河院は顕密仏教の枠を大きく踏み出し、南宋仏教との接点を模索した。この次期、南宋側の外交圧力が低下し、仏教交流と切り離されていたことも、南宋仏教の受容につながったとの見解もある*3。(後略)

 

*1:横内裕人「重源における宋文化 日本仏教再生の試み」『日本と《宋元》の邂逅 アジア遊学122』(2009)、渡邊誠「後白河法皇の阿育王山舎利殿建立と重源・栄西 」『日本史研究』579(2010)

*2:横内裕人『日本中世の仏教と東アジア』塙書房(2008)

*3:手島崇裕「五代・宋時代の仏教と日本」『日本宗教史4』吉川弘文館(2020