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西山美香『武家政権と禅宗』笠間書院(2004)Ⅲ部「東山殿西指庵障子和歌」の時空観 ー足利義政の内なる夢窓疎石ー①

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   Ⅲ部 「東山殿西指庵障子和歌」の時空観 ー足利義政の内なる夢窓疎石ー①

 

   はじめに ー禅宗和歌史序説ー

  夢窓疎石の著作のなかでもっとも流布した作品が、仮名法語集『夢中問答集』と彼の家集であることは、ほぼ間違いのない事実であろう。『夢中問答集』は「室町、江戸を通じて度々刊行され、禅宗系の仮名法語としては、最も読まれたもの」(1)であった。『夢中問答集』がひろく読まれたことは、本書においてこれまで検討したごとく、同書が、中世禅林の主流派たる夢窓派の派祖で、「七朝国師夢窓疎石自身の「日本禅宗の正典」たらんとする意欲によって刊行された以上、必然の結果とも考えられる。では、夢窓の家集がひろく一般に読まれた理由はいかなるところにあるのであろうか。

 夢窓が今日もひろく知られる存在であることは改めて述べるまでものないことであるが、夢窓が今日に至るまで長く敬愛された理由を考えると、彼が宗教家として愛された以上に、彼の思想が普遍性をもち、『夢中問答集』などの法語(思想的著作)によって、現在に至るまで人々(読者)を救済(教化)し続けているからと考えられる。が、それと同時に(実はそれ以上に)本人に備わるパーソナリティーによって、人を魅了しているからだと思われる。『夢中問答集』が長きにわたり広い読者層に読まれたのも、夢窓人気のあらわれと考えられる。

 中世から、夢窓に関する伝承や説話が数多く生産され、それらを通じて夢窓はひろく親しまれる存在であった(2)。現代のわれわれにとって、おそらくもっとも親しまれている夢窓説話は、「むかし、夢窓国師という禅家の僧が、美濃の国をひとりで行脚しているとき、道をおしえてくれるものもないような山の奥で、道に迷った」という書き出しではじめられる、ラフカディオ・ハーン(1850~1904)の『怪談』の「食人鬼」の話だろう。この話〈は近世では宝永元年(1704)成立の『和語連珠集』巻3「食人鬼」に類話がみられ、そしてそ〉の取材源としては永正9年(1512)成立の『法華経鷲林拾葉鈔』巻23普門品第25が指摘されている(3)。すなわち、この説話が中世から流布していたことがわかる。

 「食人鬼」説話における夢窓は、諸国を行脚する旅の僧という姿(4)であるが、この例のごとく、説話における夢窓は、旅と結びついた例が多くみられる(説話・伝承が生まれる場として、旅の途上というのは一つの定型パターンではあるのだが)。また他に、説話上の夢窓をみてみると、和歌と結びつく話が多く見られることも特徴の一つといってよいであろう。そのような説話・伝承における夢窓像を象徴する一例を、文化10年(1813)刊行『女今川操文鑑』(5)にみてみたい。

 中昔のころ、京都に夢窓国師と申しける智識ましまして、狂歌を読みて衆生を済度し、諸国行脚し給ひける時に、播磨の城下、姫路の町にて、喧嘩ありて、人々立騒ぎ、制すれども左右きき入れもせず、たがひに負じとつかみ合けるが、一人の男、国師を見付て、声をかけ、相手にむかひ云やう、「此喧嘩を暫まて。国師様に理非を聞分てもらひ、其うへにて、理の悪き方は謝るべし」と。左右方得心して、国師の前に膝まづき、たがひに理をいふて争ふを、国師きき給ひ、宣ふやう、「今より後は、喧嘩口論、そうじて腹の立ぬまじなひ、短気やむ堪忍の御符を授べし」と、あたりの家に立より玉ひ、硯ひきよせさらさらと書したため、両人の者に授て立去り給ひける。家の主、其護符を手に取て戴拝見すれば、護符にはあらで、一首の狂歌をぞ書たまふ。よみて見れば、

  世の人の無理を道理と聞きながし 我理をいはずうつむいて居よ

(略)有がたき御符かなと、人々感心して、其ころ守袋に入るとて書写し、諸国にもてはやしけるが、今はむかし成とて知る人まれにぞ成ける。

 この説話からも、伝承における夢窓が「狂歌を読みて衆生を済度し、諸国行脚」した僧の姿に集約されたことがわかる。

 ただし、夢窓の主著であり、彼の著作のなかでもっとも流布したものである『夢中問答集』は、「構成、叙述の余りに淡々として、教義上の建前に終始し、夢窓の人柄が語られない憾み」(6)も指摘されている。つまり『夢中問答集』には、後に伝承や説話で描かれるような夢窓像につながる、彼の個性や人間性を認めることが皆無ではないにしろ、非常に難しいのもまた事実なのである。そう考えると、夢窓が長きにわたって愛された背景には、夢窓の個性や人間性を伝えるテクストが『夢中問答集』以外に存在したのではないだろうかと推測されるのである。

 おそらくその役割を夢窓の家集が果たしたのではないだろうか。夢窓家集には、夢窓が三〇歳頃から没する直前までに全国各地で詠んだ歌が多く収められている。すなわち彼の家集は、いわば夢窓の「伝記」の役割を果たしているのである。彼の家集は彼の人間性の部分を最もよくあらわすテクストとして読まれたとも考えられるだろう。

 川瀬一馬氏『夢窓国師 禅と庭園』(7)は、夢窓疎石の行脚の跡を川瀬氏がプロのカメラマン(名鏡勝朗氏)とともに訪れ、美しい写真とともに〈(夢窓が滞在した地は風光明媚な場所が多いせいであるが)〉、夢窓の伝記を紹介した豪華写真集であるが、このような本を作ることができるという禅僧も、おそらく夢窓以外には思いあたらないであろう。そして川瀬氏によって記された解説には、夢窓がそれぞれの地で詠んだ和歌が引用されている。『夢窓国師 禅と庭園』はいわば川瀬氏の、夢窓歌の歌枕巡り旅行記として読むことができるのである。

 そしてこのような旅をしたのは、実は川瀬氏がはじめてというものではなく、近世期の俳僧・蝶夢(1732~95)は、夢窓歌の歌枕を訪ねた旅日記『宇良(裏とも)富士紀行』(8)をものしている。また蝶夢が尊敬した、芭蕉の『奥の細道』や『嵯峨日記』にも夢窓の姿がほの見える(9)。また五山僧・万里集九も『梅花無尽蔵』において、夢窓ゆかりの土地を訪れ、その感動を詩に詠んでいる。

 彼らの行為はたんに名所旧跡を訪れるという「物見遊山」ではなく、夢窓疎石という過去の僧の確かな存在を体感し、夢窓にわが身をなぞらえようとする、時間と空間を超越した身体的行為であるだろう。隠遁と旅を繰り返しながら、創作活動にあけくれた、万里や芭蕉や蝶夢らにとって、夢窓疎石とはまさにその理想、あるべき姿として君臨していたのではないだろうか。

 五山禅林最大の学僧の一人・桃源瑞仙(1430~89)は「吾が七朝帝師(夢窓)は曾て此(和歌)に長ず、到る処に吟詠し、その幾千万首かを知らず、その風韻や未だ必ずしも西行法師の制作に滅せず、今に至るも皆人口に膾炙するもの少なしとせず」と「夢窓国師の和歌に優れしこと」を記した(10)。「幾千万首」という数字が、実態ではないにしろ、夢窓の和歌は(おそらくは「伝」夢窓歌を多くふくむのであろうが)、五山禅林において大量に伝えられていたことがわかる。そして夢窓は、禅林においては西行の後継者と位置づけられていたのである。これは自著『夢中問答集』において、夢窓が自らを西行になぞらえていたこと(11)の影響なのかもしれないが、それがあながち彼のうぬぼれではなかったことを示しているだろう。

 夢窓の伝承は旅と和歌に結びつくことから、西行伝承との近似性が指摘できる。それを象徴するものとして、夢窓と遊女の和歌の贈答説話がある。寛正10年(1798)刊行『浄土真宗玉林和歌集』巻4に、

   遊女萩愛執於天龍寺夢窓国師而一首

清くとも一度は落ちよ滝の水濁りて後に澄まぬ物かは

   国師返し

さらでだに消ゆべきほどの露の身を落ちよと誘ふ萩の上風

 とある。この贈答もすでに室町時代末期成立の『大徳寺夜話』(13)に見え、中世からひろく知られる説話だったようだ。遊女と夢窓の伝承は、静岡県島田市川根町家山に今もある野守池が知られる。島原の遊女・野守が夢窓を慕い、京からはるか遠江まで夢窓を追ってきたものの、夢窓への恋がかなわず悲しみのあまり身投げしたため野守池とよばれるという伝説を、享和3年(1803)ころ成立の『遠江古迹図会』が伝えている(14)。

 夢窓の行状を記した『夢窓国師年譜』の正安2年(1300)条には、夢窓が松島を訪れた記録が記されている。夢窓は、松島で夢窓と法華経読誦の僧・頼賢と出会った。頼賢は、『撰集抄』で知られる見仏の「再来」とも呼ばれる僧であった。「西行の後継者」夢窓と「見仏の再来」頼賢との出会いは、和歌こそ残されていないが、『撰集抄』における西行と見仏遭遇の再現を思いおこさせ、『夢窓年譜』における松島の記事こそが、「狂歌を読みて衆生を済度し、諸国行脚」した夢窓説話の原点とも思われるのである。

歌人としての夢窓の活動を、家集の詞書によって確認してみると、冷泉為相との交流や、法談中やその後に和歌を詠んだことが知られる。以下にその例をあげる。

 

○鎌倉亜相(尊氏)并武衛直義朝臣臨川寺の前にて会のありけるに来臨、法談の後、嵐山の花を見て、当座の人人歌よみける次に(『正覚』3)
征夷将軍尊氏、西芳寺の花のさかりにおはして、法談之後歌よみける次に(『正覚』9)
○貞和六年仲春廿六日、征夷将軍于時亜相并典厩義詮、西芳寺に来臨、法談の後、庭前花下にて人人歌よみける次に(『正覚』30)
○観応三年廿一日、左武衛将軍禅閣并相公羽林同道して来臨、法談後、庭前花下にて人人歌よみける次に(『正覚』33)
○二階堂出羽入道道蘊亭にて、中納言為相卿、暁月房侍従為守入道など参会、法談の後、人人歌よみけるに、迷情之中仮有生滅と云ふ題にて(『正覚』45)
○左武衛将軍西芳精舎に来臨、法談の後、人人歌よみける次に(『正覚』66)
○弾正親王西芳寺におはして、法談ののち、歌よみたまひける次に(『正覚』83)


 また金沢文庫に残される彼の法談の記録においては北条高時の母、覚海尼への書信で「詠歌の工夫を通して、安心立命と真実道人のあり様を平易委細に説示し」(15)、その末尾には覚海尼が夢窓に呈した歌一首に対する、夢窓の返歌を添えられているのも注目される。夢窓は書信によって教えを説く際も和歌を用いていたことが知られるのである。
 勅撰集には十一首が入集(『風雅集』に四首、『新千載集』に一首、『新拾遺集』に三首、『新後拾遺集』に三首)。また連歌の作者としても知られ、二条良基は『筑波問答』において


 おほかた、過去現在の諸仏も、歌を唱へ給はずといふ事なし。あらゆる神仏いにしへの聖たちも、歌にておほく群類をみちびき給へば、今さら申すに及ばず。連歌はことに心あらん人思ひ入りてし給ふべきにや。されば、近くは仏国禅師・夢窓国師など昼夜もてあそばれし事、さだめて様あるらん、さだめて得も侍るらし。


と「歌にておほく群類をみちび」いた人物と述べている。『菟玖波集』には十三句が入集している。
 現在伝えられている「夢窓家集」はいずれの系統も他撰集で、夢窓疎石の没後に編纂されたと考えられている(この点については次章において後述する)。すなわち家集は、歌そのものは夢窓の作品であるのだが、テキストとしては厳密な意味で夢窓の著作とはいえず、むしろ、家集に見られるような、夢窓が生涯に亘って全国各地で歌を詠んだ姿そのものが、夢窓説話のはじめのものと考えられるのである。
 夢窓の家集が編まれた原因を考えるとき、道元の家集「傘松道詠集」について船津洋子氏が「永平寺困窮の事態の中」で、永平寺教団が「本家の面目を、他に向かって自らの正統性、存在価値を知らしめたいとする思い」によって編纂されたと述べている(16)ように、夢窓の場合も、彼の威光・権威の衰退がその背景にあることは否めないであろう。夢窓家集のなかでも、内容は信用できるものと考えられている『正覚国師御詠』は、元禄十二年に版行された際に付された序文によって、耕雲明魏(花山院長親)によって編纂されたものとされ、それを信じれば一四〇〇年前後に編纂されたと推測されるから、夢窓の没後約五〇年が経ち、夢窓の直弟子もほとんどがこの世を去った時期と考えられるからである。
 ただし、道元と夢窓では、その家集の中身は全くといっていいほど違っている。船津氏によれば、道元の和歌が「大半が宗教教理や天然自然の季節の往来を素直にうたったもの」であり、「修辞、内容の多分に道歌的な、道歌を故造しているが如き稚拙な歌が多く含まれている」のに対して、夢窓は勅撰歌人であったことからもわかるように、名歌とまでは呼べないまでも、なかなか達者な歌を残している。道元にとって和歌が「遊び」に過ぎなかったのだとすれば、夢窓の和歌は研鑽・訓練されたものである。ここに夢窓の和歌に対する積極的な姿勢をみることができるであろう。夢窓の家集が彼の「伝記」としての役割を果たし、「歌僧」として説話化されるのも、夢窓本人にそれを許す素地があるからなのである。
 ではなぜ夢窓は和歌を訓練したのであろうか。考えうるその第一の理由として、彼が和歌を教化の手段として利用するため、ということがあげられる。夢窓が和歌を教化の手段として利用した形跡・態度は、『夢中問答集』に和歌が引用されていることや、先に確認したように、法談の場や書状において和歌を詠んだことによってうかがわれる。
 それではここで、夢窓が和歌に託した役割を『夢中問答集』の和歌の引用箇所に探ってみたい。『夢中問答集』においては、第6・第41・第91問同の三箇所に五つの和歌が引用されている。

 

 昔西行、江口といふ宿にて、宿を借りけるに、主の君許さず。西行一首の歌をすさめり。

  世の中をいとふまでこそかたからめ、仮の宿りを惜しむ君かな

家主これを聞きて、

  世をいとふ人とし聞けば仮の宿に、心とむなと思ばかりぞ

と詠じけり。つねざまに、情けと言へることは、皆妄執をとどむる因縁なり。されば、人の情けもなく、世の意にかなはぬことは、出離生死の助けとなるべし。

 
 夢窓は、西行と遊女のやりとりから、西行に対する「江口の無情がかえって出離生死のたすけとなるという、順縁逆縁の問題として、人間の心で推しはかり得ない理がそこに働いている」(17)ことをよみとり、なさけによって世の意にかなふことは「妄執をとどむる因縁」になるとして、なさけによって世の意にかなふことの無用を悟ったと述べている。
 夢窓が和歌によって疑問を解消できたという話は、夢窓の実体験であったかどうかはわからない。しかし『夢中問答集』においてはそのように語られているのである。
 次に第九一問答の和歌に、禅における和歌のもつ意義についてみてみたい。

 

聖徳太子は、南岳大師の再誕なり。南岳大師は、達磨の宗旨を相承し玉ひし、其因縁によりて、聖徳太子、仏法を御興行有りし時、大和の片岡山に、達磨大師顕現し在す。太子御歌をあそばして、贈らせおはします。其歌に云はく、

  しなてるや片岡山に飯にうゑてふせる旅人あはれおやなし

大師の御返歌に云はく、

  いかるがやとみの小河のたへばこそ我が大君の御名を忘れめ

幾程なくして、入滅の相を示し給ふ。

  

 この話は「片岡山説話」として多くの文献に見え、和歌の世界では、すでに『千載集』の「序」で最澄の詠歌と並べてとりあげられたことからもわかるように、釈教歌のはじめのものと考えられてきた。片岡山説話は禅において最も聖なる「神話」とされる(18)。夢窓は『夢中問答集』第九十一問答において、

我朝の仏法は、聖徳太子始めて流布しおはします。禅宗もしいたづらごとならば、何の故にかかやうに達磨大師を、崇敬しましまさむや。

と述べているように、この説話を禅宗の正統性を述べる際にも利用している。夢窓が『夢中問答集』に聖徳太子禅宗の始祖である達磨が歌を交わしたことは、禅における和歌の意義と価値を夢窓が認めていたことを示すものであろう。
 和歌によって仏の教えを理解できた夢窓の姿、そして聖徳太子が和歌によって達磨に呼びかけ、達磨がそれに和歌で答えたことは、日本人と仏(禅)の世界が、和歌を媒介に意志を通じ合うことができるという和歌の「力」を示しているように思われるのである(19)。
 それでは夢窓が和歌を教化に利用した動機はどこにあるのであろうか。おそらくは夢窓に仮名という文字媒体への執着があったと思われるのである。『夢中問答集』には在家の信者を読者とするために仮名を用いて刊行したことが記されていた。一般に流布するためには、仮名という媒体で書かれることが、必須条件であり、そしてそれを十分意識して『夢中問答集』は刊行されたのである。漢文で書かれたテクストは出家者を対象として書かれたと考えてよいであろう(もちろん対象を完全に分けることはできない。最大公約数としてである)。夢窓が『夢中問答集』をあえて仮名(日本語)によって刊行したことは、彼が在家信者の教化を図ったことを示すものである。そして夢窓の仮名への接近をもっとも表すものが、和歌であった。つまり在家信者に対して禅を説くために、和歌を詠んだと思われるのである。

 しかし夢窓が和歌を詠んだのは、本当にただ在家信者への教化だけが目的だったのであろうか。禅における和歌の問題を考えるとき、思いおこされるのは、無住道暁の存在であろう。無住が『沙石集』と『雑談集』において和歌を多く引用していること、またその手法は、夢窓における和歌の問題に対しても、ある示唆を与えてくれると思われる。よって次に無住における詠歌の意味を彼の著作に探り、それを手がかりに夢窓における詠歌の意味をもう一度考えなおしてみたい。
 無住は『雑談集』巻4「無常ノ言」において、

圭峯禅師ノ云ク、「以空寂、為自身、勿認コト色身。以霊知為自心、勿認妄念」。此則朝暮、止観修行用心也。私ニ詠之。
  ヨシモナク、地水火風ヲ、カリアツメ、我ト思フゾ、クルシカリケル
  ヤソヂマデ、ヨクアツメタル、地ト水ト、火ト風イツカ、ヌシニカエサン
  ヨシサラバ、モヌケテサラム、ヨシカラズ、ヤソヂニアマル、ウツセミノカラ
  アヤマリニ、影ヲ我ゾト、思ナシテ、マコトノ心、ワスレテシカナ
  アキラカニ、シヅカナルコソ、マコトニハ、我ガ心ナレ、ソノホカハカゲ

と「私」なりに圭峯宗密(780~841)の言わんとすること(思想)を五首の和歌に詠んでいる。無住が歌を詠んだ圭峯禅師の言は『沙石集』巻3-8(梵舜本)にも見える語である。


圭峯ノ禅師云ク、「以空寂為自身、勿認コト色身。以霊知為自心、勿認妄念。作有義事、是惺悟心、作無義事ヲ、是〔狂乱心〕。狂乱ハ由情念、臨終ニ被牽業、惺悟ハ不隨情、臨終ニ能々転業」ト云ヘリ。文ノ意は、妄心分別ハ、コレ狂乱也、真心ヲ忘ル。一念不生ハ、コレ惺悟也、本心ヲアラハス。情念ノ所作ハ、皆無義也、無常ノ果ヲウク。無念ノ修行ハコレ有義也、常住ノ理ニ叶。此故ニ臨終ニ妄業ニカヽミズシテ、自在ノ妙楽ヲヱ(エ)ムト思ハヽ、行住坐臥妄念ヲユルサズシテ、本心ヲ明ムベシ。


 無住は、圭峯禅師の言(思想)を彼なりに理解し、『沙石集』では「文ノ意」として彼なりに解説し、『雑談集』ではそれを「私」(無住)なりに和歌によって示していることがわかる。
 無住が圭峯の思想を和歌として詠み、『雑談集』に引用した理由とは、もちろん第一には読者のために、圭峯の思想をわかりやすく説明するためであるのだが、それと同時に、おそらくは無住自身のためという部分があるのではないだろうか。ここでもう一度、無住の和歌の詠み方を確認してみると、彼は圭峯禅師の言のある一節をとりだして歌に詠み込んでいるのではなく、圭峯禅師がその言にこめた「意」を汲みとり、それを新たに彼じしんのことばによって歌に詠んでいることがわかる。
 このような詠み方、つまり和歌としてある思想を詠ずる際、そのテーマとなっている思想を完全に理解・体得していなければ詠めないと考えられる。無住は歌に詠むという行為によって、その思想を理解・体得しようと努めているのではないだろうか。
 夢窓の家集に目を戻してみると、


   仏身無為にして諸趣に堕せずと云ふ心を(58)
わすれては世をすてがほにおもふかなのがれずとてもかずならぬ身を
   挙足下足皆道場と云ふ心を(72)
ふるさととさだむるかたのなきときはいづくにゆくも家ぢなりけり
   世尊不説之説、迦葉不聞之聞といへる心を(80)
さまざまにとけどもとかぬことの葉をきかずしてきく人ぞすくなき
   新成仏のこころを(81)
むすびしにとくるすがたはかはれどもこほりの外の水はあらめや
   無輪廻中妄見輪廻の心を(82)
山をこえ海をわたるとたどりつる夢路はねやのうちにありけり


などといった、「……の心を」という題で詠まれた歌がみられ、これらが無住と同様な詠み方をした歌と考えられるであろう。詞書でみられる「仏身無為にして諸趣に堕せず」・「挙足下足皆道場」・「世尊不説之説、迦葉不聞之聞」・「無輪廻中妄見輪廻」という語句は、直接的には和歌には詠み込まれていないことがわかる。ここで夢窓が詠んでいるのはその「心」、すなわち『沙石集』でいう「文の意」なのである。
 おそらくは、ある思想を和歌として詠ずることによって理解・体得しようする「修行」として和歌を詠むことが存在していたと思われるのである。そして「修行」としての詠歌を夢窓に教えた人物こそ、彼の宗教上の師でもある仏国禅師高峯顕日であったとは考えられないだろうか。
 高峯顕日の家集は、歌数は二九首と少ないが、うち三首が勅撰集に入集しており(『風雅集』二首・『新続古今集』一首)、当時の評価は高かったと考えられるであろう。「十牛図」を素材に詠んだ和歌が少なくとも二首みられ、その他『宗鏡録』を出典ともされる和歌が一首ある(20)。禅の思想を詠んだ和歌としては、はやい時期のものといえるだろう。
 仏国の和歌にも「……の心を」という題を持つものが見られる。


   本来成仏の心を(8)
雲はれて後のひかりとおもふなよもとより空に在明の月
   輪廻と云心を(19)
あかつきのうきわかれにもこりすしてあふはうれしきよひの手枕
   公案提撕の心を(24)
たてぬまとひかぬ弓にてはなつ矢はあたらすなからはつれさりけり


 「本来成仏」は『円覚経』の「始知衆生、本来成仏、生死涅槃、猶如昨夢」がその典拠と思われ、同じ題を詠んだものとしては、


さめやらぬうき世の外のさとりぞと見しは昨日の夢にぞ有りける(『新後撰集』687 洞院公守
今ぞしるなにはものりのことわりにまよふほどこそ身をつくしけれ(『続門葉集』909 法印道恵)
月の行くうき世の外をたづぬるは者を思ひし心なりけり(『拾遺風体集』504 忠遠上人)

などが見られる。断定的なことはいえないが、禅の影響によって詠まれた題と考えられる。注目されるのは『拾遺風体集』にみられることで、『拾遺風体集』は冷泉為相の編纂とされ、高峯と為相は大変交流が深かったことが知られる(21)。
 夢窓とほぼ同時代人である二条派の有力歌人・惟宗光吉(1274~1352)の家集には「教外別伝不立文字の心を」という、禅の宗旨を題とする、
  をしへおくのりのほかなる道ならば心とむなもじのせきもり(293)
があり、『拾遺風体集』にも「教外別伝不立文字の心を」を詠んだ道世法師の
  をしへおくのりのほかなる道なればふみしる人のさぞまよふらん
がある。
 禅の思想を詠んだ和歌は少なからず見られるが、作例がはやいものとしては、『続古今集』(異本)における、中国禅宗の実質的な祖である馬祖道一の代表的思想を表す語である「平常心是道」を詠んだ、九条教家(1194~、道元の弟子・外護者とされる)の作、
  まことしく仏の道を尋ぬればただよのつねの心なりけり(1921)
があげられるだろう(22)。また同じく『続古今集』には、『沙石集』巻3ー8にその名が見える、初期臨済禅の名僧・天佑思順の和歌が二首みられることも注目される。うち一首は「教是仏語禅是仏心還有浅深否と問ひて侍りける人の返事に」という題の
  しのびつついくたびかけるたまづさもおもふほどにはいはれざりけり(793)
なども早い作例としてあげられるだろう。天佑思順は無住や高峯、夢窓に先だって、和歌を詠んだ禅僧として特筆すべき存在であり、『続拾遺集』にも一首が、計三首が勅撰集に入集している(釈教歌ではないが、栄西も『続古今集』に一首入集している)。
 禅が日本に伝えられて以来、禅はいわゆる上流知識階級を中心にひろまるが、禅のきわめて中国的であり、抽象的・難解な思想を伝え、理解・体得する際に、和歌が果たした役割はきわめて大きかったと推測される。禅の思想を詠んだ和歌が、禅僧以外にも少なからず見られるということは、歌を詠むということがその思想を体得するための一首の「修行」(といえるほど大げさな自覚的な行為であったかはわからないが、あくまで一つの言語遊戯をとおしての)として行われていたことを示しているのではないだろうか。古田紹欽氏は、室町時代になって在家者で参禅するものがふえると、在家者にもわかるように禅問答も漢文体から平易な言葉をもってされるようになり、狂歌をもって問答のようなものもなされたことを指摘し、和歌の問答は記録されることによって仮名法語となり、江戸時代における禅の庶民化の原動力になったと述べている(24)。しかし初期の禅僧たちの和歌が残されていることから推測すると、おそらくは禅が日本に伝わった非常にはやい段階から、禅の「修行」に和歌が用いられていたことが推定されるのである。

 これまで「禅林の文学(五山文学)」といえば、漢文の詩ばかりが注目されてきたが、禅林は和歌や説話を生産し伝え続けてきた、和の文学の豊かな水脈をもっていたことがわかる。そして思想的にも五山最大の存在であり、和漢それぞれの文学にも長じていた夢窓疎石こそが、詩禅一致・和漢兼帯を理想の文学とする(25)、「禅林の文学(五山文学)」を象徴・代表していると考えられるであろう。

 

(1)木下資一『研究資料日本古典文学 第八巻 随筆文学』「夢中問答」明治書院(1983)。

(2)徳田和夫「中世女人出家譚『千代野物語』について」『国語国文論集(学習院女子短期大学国語国文学会)』(1994・3)→「伝承文学と文献」『講座日本の伝承文学 1 伝承文学とは何か』三弥井書店(1994)は「夢窓国師は、一休宗純に次いで、宗派内だけではなく、多方面にわたって説話、伝承を多く伝える人物である」として、『三国伝記』巻4第9話「夢窓国師事」、『碧山日録』長禄三年二月二四日条、『塵荊鈔』巻11、『雲玉和歌抄』雑部、『法華経鷲林拾葉鈔』巻23普門品第25、『法華経直談鈔』巻7本「提婆品」12、『直談因縁集』巻4〈五百品〉第5、『多聞院日記』永禄九年正月二六日条、『月庵酔醒記』、『法華懺法抄』巻下、『醒睡笑』、『古今夷曲集』、『千代嚢媛七変化物語』をあげる。

 岡雅彦「笑話 一休ばなしの成立」『岩波講座 日本文学と仏教 第9巻古典文学と仏教』岩波書店(1995)は、夢窓にまつわる伝承が一休の説話として取り込まれたことを指摘し、徳田論文が紹介したもの以外に、『新撰狂歌集』、『大徳寺夜話』を紹介する。

 その他、管見に入った夢窓の説話・伝承として、『月刈藻集』、『釈迦如来栴檀瑞像記』、『為愚痴物語』巻2第11「双六の上手利口の事」、『百八町記』巻5などがある。

(3)阪口光太郎「『和語連珠集』に引かれた直談系法華経注釈書 近世における直談系法華経註釈書享受の一例について」『東洋大学大学院紀要』30(1993・2)、堤邦彦『近世仏教説話の研究 唱導と文芸』翰林書房(1996)参照。

(4)『夢中問答集』において夢窓自身によって語られる自画像も旅の僧の姿である。第6問答では「予三十年の前に此の疑の起れる事ありき。常州臼庭といふ所に独住せし時、五月の始め庵外に遊行す。」と「常州臼庭」(現在の茨城県北茨城市)に滞在していたときのことを、第76問答においては「予昔遊山の次でに、同伴の僧七八人つれて、富士山の辺り西の湖といふ所に到れり」と述べる。両話とも『夢中問答集』中、きわめて印象鮮やかな部分である。

(5)『江戸時代 女性生活絵図大事典 2』大空社(1993)。

(6)(1)と同じ。

(7)講談社(1968)。

(8)北田紫水『俳僧蝶夢』大蔵出版(1948)・山本平一郎「俳僧蝶夢の宇良富士 紀行 ー夢窓国師の山水漂流ー」『禅研究所紀要』1(1971・5)が詳しい。またこの旅に同行した弟子の木姿も「富士美行脚」をのこしており、旅の全貌はこちらのほうが詳しい。

(9)元禄4年(1691)四月一八日、芭蕉は嵯峨に赴き、はじめての夜を過ごし、その翌一九日に嵯峨における最初の外出で、彼はまず最初に夢窓の塔所(墓所)である臨川寺に詣でている。

(10)今泉淑夫『桃源瑞仙年譜』「文明七年一〇月一二日条」春秋社(1993)。

十月十二日、午後、曹源寺志高長老ヨリ紅柿ヲ恵セラル、和歌一首ヲ添ヘタリ、コレニ因ミテ夢窓国師ノ和歌ニ優レシコト、マタ亡父年登居士ノ和歌ニ長ゼシコトヲ想起ス、

(11)本書Ⅱ部4章参照。

(12)大取一馬編『浄土真宗玉林和歌集』臨川書店(2002)。

(13)飯塚大展「龍谷大学図書館蔵『大徳寺夜話』をめぐって(1)」『駒澤大学禅研究所年報』10(1993・3)。

〈荻(ママ)ト云傾城、夢窓ニ一首和歌ヲ寄云、「清トモ一夜ハ落ヨ滝ノ水濁テ後ハ清物カハ」夢窓返歌云、「イトトタニ危スメル露ノ身ヲ落ヨトサソウ荻ノ上風」開山聞之云、此興ナ返歌也。徹翁云、和尚作麼生。山云、荻ヲ一蹈ニ倒セン。夢窓ヲナブツテ云タ事チヤ程ニ也。〉

(14)『静岡県榛原郡誌』名著出版(1971復刻)は、思いがかなわなかった野守がついには大蛇となり夢窓によって調伏されたという道成寺系説話や、野守池近くの夢窓を開山とする三光寺(現・曹洞宗)には夢窓の姿が織り込まれていた中将姫作の織物があるという中将姫説話と結びついた異伝を伝える。寺伝によれば、織物は寺宝として最近まで伝えられていたが、今は失われてしまった。

(15)『金沢文庫資料全書 仏典1 禅籍篇』神奈川県立金沢文庫(1970)。
(16)「『傘松道詠集』の名称・成立・性格」『大妻国文』5(1974・3)。

(17)植田重雄「夢窓国師の文芸」『早稲田商学』133(1958)。本書Ⅱ部2章も参照。

(18)本書Ⅰ部1章、Ⅱ部4章参照。

(19)『聖徳太子の本地』の「太子が悟りの旨を達磨に尋ねたのに対し、(略)『日本に和歌の道ありて……此歌をたよりにして……悟り給ふべし』と十首の和歌を太子に示す」(大島由紀夫執筆「聖徳太子の本地」『お伽草子事典』東京堂出版(2002))という内容は、禅における和歌を媒介にした太子と達磨の出会いの意義を示している。

(20)西山美香「『仏国禅師家集標注』翻刻と紹介」『大倉山論集』46(2000・9)参照。

(21)福田秀一『中世和歌史の研究』角川書店(1972)が詳しい。関東歌壇と高峯・夢窓の関連も重要な課題であり、別稿を期したい。

(22)禅の和歌については、間中富士子「中世に於ける禅及び禅僧の和歌」『鶴見女子短期大学紀要』2(1962・3)、古田紹欽『禅僧の歌』春秋社(1974)参照。

(23)高橋秀栄「草河の真観房思順について」『松ヶ岡文庫研究年報』18(2004・3)が詳しい。同論文は金沢文庫蔵『雑々要文』に収められた思順の和歌三首を紹介する。

  コトトワム、カカミトカケト、ヒカリトハ、ミツカフタツカ、イカカワカタム

  山カケニ、ムスヒシコウリ、トケソメテ、イツレノサトモ、ハルメキニケリ

  トウ人ニ、マツコトトウム、ヲノカミソ、マナコハイアカカ、マナコヲハシル

 高橋論文は「仏の教えを和歌に詠むには優れた見識、学識が「なければならない。それはいうなれば、経典の翻訳行にも匹敵する難行である」と和歌の意義を端的に指摘する。

 本章でも述べた夢窓が松島で出会った頼賢は『夢窓国師年譜』に「草河真観上人門弟也」とあることから、「草河真観上人」すなわち思順の門弟であり、夢窓が天佑思順を知っていたことがわかる。夢窓と頼賢も歌を交わしたかもしれない。

 天佑思順は後嵯峨法皇に『摩訶止観』を講義した(金沢文庫『法華文句雑見聞』巻2 高橋論文参照)こともあったが、夢窓の師の仏国禅師高峯顕日は後嵯峨の皇子といわれる。思順は夢窓がもっとも敬愛した中国の禅僧・大慧宗杲の孫弟子として法系に連なり、夢窓が最初に参禅を志した心地覚心も思順から大きな影響を受けている。夢窓も思順に特別な思いを持っていた可能性もあるだろう。また夢窓家集の彰考館小山田文庫本には、思順の歌「おとづるるおとになかなかやまざとのさびしさまさる夕しぐれか(『続古今集』794)が夢窓に仮託されて収められている。

(24)『日本人のこころ 古典にみる禅の思想』現代教養文庫(1966)。

(25)永島福太郎「茶道史序説」『茶道文化論集 上』淡交社(1982)参照。