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魚籃観音(『望月佛教大辞典』より)

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魚籃観音

魚籃観音 ギョラン クヮンノン

三十三観音の一。手に魚籃を持するが故に此の称あり。又水上、大魚に乗じたる形像あり。之を法華経普門品に「或は悪羅刹、毒龍、諸鬼等に遇すはんに、彼の観音の力を念ぜば、時に悉く敢て害せず」と云ふに配するも、是れ中世中国に起れる信仰にして、経軌経文に元と其の説なし。宋学士全集補遺第三に載する魚籃観音像賛に依るに「予、観音感応伝を按ずるに、唐元和十二年、陝右金沙灘上に美齢の女子あり、籃を挈げて魚を鬻ぐ。人、競うて之を室にせんと欲す。女曰はく、妾、能く経を授けんに、一夕にして能く普門品を誦せば、事へんと。黎明に能する者二十。女、辞して曰はく、一身豈に衆夫に配するに堪へんやと。請うて金剛経に易へ、前に期する如くす。能する者、復た其の半に居る。女又辞し、請うて法華経に易へ、期するに三日を以てす。唯だ馬氏の子のみ能くす。女、礼を具し、婚を成さしむ。門に入るに、女、即ち死す。死すれば即ち麋爛し立ろに尽く。遂に之を瘞む。他日、僧あり馬氏の子と同く蔵を啓き之を観るに、唯だ黄金鎖子骨のみ存す。僧曰く、此は観音示現して以て汝を化する耳と。言ひ訖て空を飛んで去る。是より陝西、経を誦する者多し。烏傷の劉某、括人呉福に命じ、金碧を用て画きて一幀を成し、月旦十五日、展べて謁す。予に其の事を序せんと請ふ。序し以て之が賛を繋げて曰はく、惟我大士、慈憫衆生、耽着五欲、不求解脱、乃化女子、端厳妹麗、因其所慕、導入善門、一刹那間、遽爾変壊、昔如紅蓮、芳艶襲人、今則臭腐、蟲蛆流蝕、世間諸色、本属空仮、衆生愚癡、謂仮為真、類蛾赴灯、飛逐弗已、不至隕命、何有止息、当是実相、円同太虚、無媸無妍、誰能破壊、大士之霊、如月在天、不分浄穢、普皆照了、凡帰依者、得大饒益、願即同帰。薩婆若海」と云へるもの、蓋し其の起源ならん。仏祖統紀第41元和4年の条にも、同一の記事あり。唯だ籃を挈げて魚を鬻ぐと言はざるを異とするのみ。仏像画彙第2に出だせる三十三観音中、魚籃観音の外に、別に馬郎婦観音あり。馬郎婦とは、馬郎の婦の意なれば前掲の因縁は、是れ正に馬郎婦観音にして、亦同時に魚籃観音の故事なりと云はざるを得ず。三田魚籃寺縁起にも、粗々之と同じき記事を録すれば、魚籃は、馬郎婦の持せるものにして、此の二者、恐くは同一ならん。江戸砂子第5には「魚籃観音は本説を見ず。疑ふらくは、霊照女の像の籃を持てるを誤りて、魚籃観音と号せるか。馬郎婦と魚籃は一ならん」と云へり。此の中、霊照女と云ふは、仏祖統紀第41に「居士龐蘊、元和中、襄漢に北遊し、郭西の小舎に居る。一女霊照、常に竹漉籬を製し、売りて以て朝夕に供す。将に逝かんとし、霊照をして出でし日の早晚を視せしむ。午に及んで以て報じ、女、遽に曰はく、日已に中す、而も蝕ありと。居士、戸を出でて之を視る。女即ち父の座に登り、合掌して坐亡す」と云ひ、仏祖歴代通載第20、居士伝第17等にも、亦其の記事あり。之に依るに、霊照は、龐居士の女にして、馬郎婦と別人なり。又宋学士全集補遺第3にも、魚籃観音霊照女二賛と題して、惟観世音、誓救群迷、現不実相、変滅斯須、破凡夫執、返乎物初、一真所摂、万境自如(已上魚籃観音)惟霊昭女、入不思議、以般若種、得方便智、聚首而談、無非実際、至今霊光、照乎天地(已上霊照女)の偈をあげたるを以て見れば其の同人に非ざること明かなりと雖も、古来、此の二女(魚籃観音と霊照女)が、同じく唐元和年中に生存して、共に奇行を以て伝へられたるより、遂に之を混同し、霊照女の竹漉籬を持せるを魚籃観音と訛伝し、之を馬郎婦観音と別視するに至りしものならん歟。其の同人に非ざること明かなりと雖も、古来、此の二女(魚籃観音と霊照女)が、同じく唐元和年中に生存して、共に奇行を以て伝へられたるより、遂に之を混同し、霊照女の竹漉籬を持せるを魚籃観音と訛伝し、之を馬郎婦観音と別視するに至りしものならん歟。或は、稗史西遊記に、玄奘三蔵が西遊の途次、通天河を過ぐるに、水中、妖魔の捉ふる所となりて、厄難を免るること能はず。悟空、因って補陀山に馳往し、観音を請ずるに、菩薩、乃ち悟空と共に其の処に到りて、籃を水中に投ずるに、妖魔、本身に復して、籃中に盛らる。之を見るに、一匹の溌溂たる金魚なりと云ふを付会して、其の権輿となすの説あるも、恐らくは信ずるに足らざるべし。又籃中の魚は、龍を表したるものとも云ふ。故に祇陀開山大智禅師の偈頌に「翠黛画眉織月淡、春風満面小桃紅。見人放下籃兒去、三十六鱗皆化龍」とあり。東京芝三田魚籃寺に安置する観音像は、承応元年、同寺開山称譽萬冏、肥前長崎に遊錫し、中国商売二官?の女より得たる所。二官?は、元と中国澄?河寺住僧の弟にして、屡々我が国に来遊せしが、渡海の船中、常に此の像を守護の本尊となしたりと伝ふ。一説には、像は、始め法誉なる者、彼の地にて二官の女より之を得、元和三年、豊前中津円応寺に魚籃院を建てて安置し、後、寛永七年、三田に小堂を構へて之を遷座し、承応元年に至りて、称誉、今の魚籃寺を建立せりと云へり。又江戸名所図会第三に出づ。

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